トップ文化瀬戸内国際芸術祭 香川県さぬき市・志度寺 海女伝説にちなむ女神像 フィリピン作家の作品展示

瀬戸内国際芸術祭 香川県さぬき市・志度寺 海女伝説にちなむ女神像 フィリピン作家の作品展示

志度寺本堂
志度寺本堂

岡山・香川の両県で開かれている瀬戸内国際芸術祭(瀬戸芸)夏会期(8月1日から31日)の会場の一つ、香川県さぬき市志度の四国遍路第86番札所・志度寺に、同寺に伝わる海女伝説にちなむフィリピンのアーティストの作品が展示された。志度は古くから海陸交通の要地で、江戸時代までは香川県東部の農産物の集散地として栄え、カキや桐下駄(きりげた)などの特産品がある。 作品名は「メブヤンのバランガイ(メブヤンの船または聖域)」で、制作したリーロイ・ニューさんは「メブヤンはフィリピン神話の女神で、バランガイは古代の船。作品は、フィリピンの伝統文化から未来を切り開く宇宙船のような大きな器。航海民族であるフィリピンの伝統、環境問題、そこから未来をどのように切り開いていくかという思考を込めた作品」と説明している。バランガイは「村」や「コミュニティー」も意味し、全会一致を原則とする現地ならではの伝統的な民主主義とされている。

その名のように、作品は地元のボランティアと瀬戸芸のスタッフの共同作業で、竹とペットボトルを組み合わせて制作された。アーティストと地域住民とのコラボレーションが瀬戸芸の最大の特徴で、一つのまちづくりの在り方を示している。

境内に海女の墓がある志度寺の「海女の玉取り」伝説とは次のようなもの。

境内にある海女の墓
境内にある海女の墓

藤原不比等が父鎌足の供養のため興福寺を建立した時、唐の高宗皇帝の妻になっていた妹が宝珠を日本に送った。船が瀬戸内海の志度の沖へ差し掛かった時、海が荒れ、船が難破しそうになったので、龍神の怒りを鎮めるため宝珠を海に投げ、危機を脱す。

それを聞いた不比等は、姿を変え宝珠を探しに志度に行ったが見つからない。そのうち、不比等は若い海女と親しくなり、男児をもうけ房前(ふささき)と名付けた。たびたび海を眺めている理由を妻に聞かれた不比等は身分を明かし、失われた宝珠の話をした。すると海女は「宝珠を取り戻したら房前を世継ぎにしてくれるか」と問い、不比等が同意すると海に飛び込んだ。

海女は海底で宝珠を取り戻したが、龍神に追われたので、乳房を短刀でえぐって宝珠を隠し、命縄を引く。縄を引き上げると、宝珠は乳房から出てきたが、海女は死んでいた。

不比等は、海辺に墓と堂宇を設けて「死度道場」と名付け、宝珠を興福寺の本尊釈迦如来の眉間に納め、約束通り房前を都に連れ帰り、世継ぎにした。後に房前は、行基を伴って墓参し、堂宇を増築し「志度寺」と改めた。

古代から讃岐(さぬき)は大和と縁が深く、高松市には春日神社があり、源平合戦の屋島に向かい春日川が流れている。当地には藤原氏の広大な荘園があった。そうした歴史から生まれた伝説なのであろう。

平賀源内の墓
平賀源内の墓

梅原猛の『海人(あま)と天皇』(上下、朝日文庫)は、藤原氏と海人との関わりを、和歌山県日高川町の道成寺に伝わる「かみなが姫」の話を基にひもといたもの。髪長姫は不比等の長女宮子のことで、美しさから不比等の養女に迎えられ、後に文武天皇の夫人となって首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を産む。しかし産後、心を病み、息子の天皇と対面できたのは36年後のことだった。道成寺は、文武天皇が宮子の願いを受け創建したという。藤原氏が海洋民族の支援を得て古代国家を形成した歴史を暗示している。

志度寺の塔頭・自性院常楽寺にも同じ作家の作品が展示されている。同寺は大河ドラマ「べらぼう」に登場した平賀源内の菩提寺で、境内の墓に訪れる人も多い。

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