D・キーン氏の労作『正岡子規』『石川啄木』

2019年に亡くなった日本文学研究家ドナルド・キーン氏晩年の著作、『石川啄木』が『正岡子規』に続いて新潮文庫に収められた。日本近代の詩歌を革新した2人の文学者については、既に夥(おびただ)しい評伝が書かれているが、新鮮な感動を覚えた。子規と啄木の全人像を生き生きとよみがえらせ、その文学の本質に迫っている。
『正岡子規』でキーン氏は、幼少の頃から晩年には病気と格闘しながら名随筆を残し没するまでの子規の生涯を描いている。その中で、子規にはあまり恋愛の話がないことに驚いたと語り、日記の中に娼婦(しょうふ)を買ったことなどを書き、性生活の証拠はふんだんに残されている、ほぼ同時代人の啄木との違いに注目している。
作家の平野啓一郎氏は『石川啄木』の解説で、キーン氏が『正岡子規』はどちらかというと、「書かなければならないと思って書いた」本だが、石川啄木は「書きたいと思って書いている」と氏に語ったことを明かしている。
2人とも人間としては欠点も多かった。とりわけ啄木は、酒色に溺れ、自滅的な生活を送り、病気と貧困で自分と家族を苦しめた。平野氏は啄木について「自分の身近に彼がいたなら、果たしてつきあいきれただろうか」と何度となく考えたという。
キーン氏が活写した啄木はそんな人物だった。しかしそれでも、支援を続けた宮崎郁雨(いくう)や友人の金田一京助など、曲折はあっても、完全に離れていくということはなかった。才能だけでなく何かしら人間として憎めないものが啄木にはあったと思われる。
キーン氏は啄木を、「極めて個性的でありながら奇跡的に我々自身でもある一人の人間」と評する。その短歌が人々に身につまされる普遍性を感じさせるからだけではないだろう。啄木のような背信的で破滅的な行動に至るか否かは別としても、啄木の告白した心の奥底は、人間が共通して持つものがあるとキーン氏が感じたからに違いない。
日本の詩歌を革新し、新しい命を吹き込んだ2人に共通するのは、自分が感じたことを言葉で「正直」に表現したことだった。
二つの評伝はこれまで日本で発表された著作や論文を元に書いており、特別な新資料を元にしたものではない。にもかかわらず、初めて子規や啄木の生の姿に接したような手応えがあり、作品の理解も深めてくれる。これを可能としたのは、キーン氏が米国人であるが故の客観性と文学への愛、ひいてはそれを生み出した人間への愛であると思われる。
(特別編集委員・藤橋進)