頼山陽、林芙美子ら25石碑
近年は映画の街として注目

かつて瀬戸内海の海運の要衝として栄えた広島県尾道市。近年は映画の街として注目を集めているが、江戸時代には、その風光の美しさに引かれ、頼山陽、十返舎一九らの文人が来訪。明治以降も志賀直哉ら多くの作家が訪れている。
尾道水道を望む山の斜面には、幾つもの寺院があり、寺院巡りが観光の目玉になっている。その中心、千光寺公園に「文学のこみち」があり、約1㌔の遊歩道に尾道ゆかりの文人の石碑が25基置かれている。その石碑を巡ってみた。
スタート地点となる千光寺公園の展望台で、まず尾道の風景を一望する。手前に尾道市街、そして尾道水道を挟んで、大きなクレーンのある向島(むかいしま)のドック、さらにその向こうに瀬戸内の島々が遠望できる。素晴らしい眺望だ。この眺めに引かれて多くの文人がこの街を訪ねたのだ。
展望台の下から続く坂道を下りて行き、まず目を引いたのが、国語学者でアイヌ文化研究の先駆者、金田一京助の碑。松の木と海を背にしたどっしりとした石に、「かげとものをのみちのやどのこよなきにたびのつかれをわすれていこへり」の和歌が刻まれている。昭和30年に来遊した際の作だ。
その近くには、志賀直哉の碑がある。直哉は小説執筆のために大正元年の秋から同2年中頃まで、千光寺の下に居を構えた。直哉の旧居は今も残っている。石碑には、『暗夜行路』の一節が、尾道出身の洋画家、小林和作の筆で刻まれている。
「六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる。其頃から昼間は向島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の灯台が光り出す。それがピカリと光って又消える」
さらに少し降りた所に、林芙美子の碑がある。『放浪記』の次の一節が刻まれている。
「海が見えた。海が見える。五年振りに見る尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提灯のように、拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える。山は爽やかな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が帆柱を空に突きさしてる。私は涙があふれていた」
大正5年に家族と共に尾道に移り住んだ林は、ここの小学校に学び、尾道高等女学校(現尾道東高等学校)を卒業している。幼少期、家族とともに西日本を転々とする生活を送った林は、自分には故郷がないように言うが、尾道が最も懐かしい街だった。
「軒(のき)しげくたてる家居(いえい)よあしびきの山(やま)のおのみち道(みち)せまきまで」
幕末の蘭学者、緒方洪庵が文久2(1862)年初夏、尾道に来遊したときの作。
「大屋根はみな寺にして風薫る」は、明治から大正にかけ活躍した作家、児童文学者の巌谷小波(いわやさざなみ)が、昭和7年に訪れた際、読んだ句。
どの文人も、尾道の独特の風光に感銘を受け、それを表現したものが多い。「文学のこみち」は、そんな風光を愛(め)でながら、散策することができるのである。
(特別編集委員・藤橋進、写真も)