
今年は第2次大戦後80年を迎えた記念の年で、先月、米国の首都ワシントンにある国立公文書館で、日本が調印した降伏文書原本が一般公開された。
この調印式は1945年9月2日、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリ号の甲板で行われ、日本側代表は重光葵(まもる)外相で、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥ほか、英国や中国など各国代表がそれぞれ調印した。
この調印式に臨んだ重光外相ら日本側代表団は心が重かった。不名誉な恥辱の式典なので、断罪の言葉が浴びせられるだろうとみな嘆息していた。
ところがマッカーサーがマイクを取ってスピーチを始めると、淡々とした口調で、敗者に対する勝者の裁きの言葉はなかった。
「この厳粛なる機会に、過去の出血と殺戮の中から、信仰と理解に基礎づけられた世界、人間の威厳とその抱懐する希望のために捧げられたよりよき世界が、自由と寛容と正義のために生まれ出でんことは予の熱望するところであり、また全人類の願いである」(『マッカーサー回想記』津島一夫訳)
重光の秘書官で随行員の加瀬俊一は、この演説に深く感動し、マッカーサーを「平和の人」「光明の人」と呼び、絶望と悲嘆の中に一筋の光を見た。加瀬は回想記『ミズリー号への道程』の中で、「このスピーチによって全権団は汚辱の使者から栄光の使者となった」と語るのだ。
加瀬と同様に衝撃的な体験を伝えているのは、当時、山陽新聞の論説委員で、取材のために乗り込んでいた葉上照澄(はがみしょうちょう)だ。
葉上は言論面での戦争責任を感じていた。しかし敗戦で日本がペチャンコになり、卑下しているのに我慢がならず、加えてアメリカ嫌いだったので、ミズーリ号に乗り込んでマッカーサーに体当たりをし、海に放り込もうという魂胆だった。
待っているとマッカーサーが現れてきて、淡々とスピーチを始めた。
「まことに淡々としとる。勝者の傲りがみえへん。こりゃ負けたと思うたね。瞬間。もうインタビューどころやない。もうあかん」
世界観をひっくり返されてしまったのだ。高瀬広居が著書『生きる喜び―現代の名僧が語る』の中で伝えている。 葉上は1903年、岡山県の天台宗の寺に生まれたが、僧侶になるのを嫌って、岡山の第六高等学校を経て東京大学西洋哲学科を卒業。大正大学教授となったが、妻の死をきっかけに発心し、岡山に戻って塾を開き、また山陽新聞の論説委員をしていた。そして敗戦。
大学で学んだのはフィヒテの宗教哲学。フィヒテは教育による国造りを訴えた哲学者で、その根本には、自分を超えた大いなる存在に目を向け、理想を持てという考えがあった。この考えは、自己の利益を捨てて国の利益を先にするという、最澄の思想にも通じていて、最澄もまた教育の重要性を説いて実行していた。
ミズーリ号で悟ったのは、「若いやつを教育し直さにゃあかへん」ということだが、教育はまず自分自身から。比叡山に入り、1947年、7年間に及ぶ千日回峰行に取り組んだ。筆舌に尽くし難い苦行だったが、喜びも大きかった。
「回峰行とは、ひとことでいえば、この、人を拝みつづけ、なぐられ、石を投げつけられても、ひたすら、やむことなく人間を礼拝し、(略)その〝慈悲と利他の行〟をわが身に注入する修業なのである」
葉上は回峰行を終えると「忘己(もうこ)利他」の国民教育を始めた。





