トップ文化野口冨士男著『感触的昭和文壇史』 「横丁」から見た等身大の姿 戦後はジャーリズム主導【昭和100年を読む】

野口冨士男著『感触的昭和文壇史』 「横丁」から見た等身大の姿 戦後はジャーリズム主導【昭和100年を読む】

野口冨士男著『感触的昭和文壇史』(文藝春秋)
野口冨士男著『感触的昭和文壇史』(文藝春秋)

 著者は本書の中で、「私はかねてから平野謙の『昭和文学史』は表通りの文学史で、高見順の『昭和文學盛衰史』は路地奥にまで入り込んだ文学史だが、横丁ないし裏通りを書いたものはない、そこのところが欠けていると語ってきた」と述べている。

 そして、その欠けた部分を、銀座の並木通りや外堀通りに喩(たと)え、「私が歩いてきた――あるいは歩かされてきた道はそういう道ばかりであったから、そのへんのところを書き留めておくことは、私の任務ないし義務だろうと長いあいだ考えてきた」という。

 著者の野口冨士男(1911~93年)は、小説『暗い夜の私』『なぎの葉考』(川端康成賞)、『徳田秋声伝』(毎日芸術賞)などの代表作を残し、84年から88年まで日本文藝家協会理事長を務めた。本書では86年の菊池寛賞を受賞している。

 著者が挙げた、平野謙の『昭和文学史』と高見順の『昭和文學盛衰史』は長らく昭和文学史のスタンダードとして読まれきたが、2人ともプロレタリア文学からの転向者。自身の体験もあって、同文学の影が陰に陽に差す傾向がある。それに対し野口は、非プロレタリア派で純文学一筋の道を歩んできた小説家。本書では、そういう文学的経歴を持つ著者が、イデオロギーや立場にとらわれず、自身が身を置いてきた昭和文壇の歩みを、当時感じた空気や手触りなど、まさにその感触をもとに描いている。

 昭和2年の芥川龍之介の自殺から筆を起こしている。自殺の原因について著者は、これまで平野謙らが指摘してきたプロレタリア文学台頭への不安という説を「芥川龍之介の死因を、言ってみればたかがその程度の風圧によるものとみては、あまりにも彼をみくびり過ぎて失礼千万だろう」と一蹴する。

 これまでの昭和文学史では、戦前の政府による検閲や国策に沿った創作から、戦後の自由、民主主義文学という図式で説明されることが多かった。しかし著者は自身の体験や、昭和15年発表の太宰治『駆け込み訴え』、織田作之助『夫婦善哉』などを例に「迎合もしくは便乗からはなれた立場で書かれている作品群があることは確実だと言えるだろう」と述べる。そして「戦争末期にいたるまでは、統制によるしめつけも、文学ならびに文学者全般を覆うほどのものではなかった」と結論付ける。

 昭和の文壇における戦前からの戦後への「地続き」の部分への注目も、著者ならではの指摘となっている。戦後文学の出発が、まず島崎藤村ら戦前からの大家の復活から始まり、戦前から一貫して創作を続けてきた著者を含む多くの作家がいた。「横丁」からこそ、文壇の等身大の姿が見えるのである。戦後の文壇で著者が注目するのは、出版社やジャーナリズムの主導型になった点だ。これは「第三の新人」の登場あたりから顕著になる。著者は吉行淳之介、安岡章太郎らを山本健吉が「第三の新人」と命名、定着するに至った過程を詳しく辿(たど)っている。

 昭和31年、石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞し、芥川賞の社会現象化が起きる。そんな中で、十返(とがえり)肇の『「文壇」の崩壊』が同年の中央公論に発表される。著者は、十返の論文は文壇が「ジャーナリズムの中に崩壊したと言えよう」と述べている点に注目。その通りの流れが続いていることを認めながら、商業雑誌の新人賞の選考委員がジャーナリストでなく文壇人であるという事実に、「文壇が、今なおそういうかたちで生き残っている」と言う。

  本書が出た昭和61年から状況は大きく変わっている。文壇が存続しているのか、改めて問うてみる上でも、本書は多くのヒントを与えてくれる。

 (特別編集委員・藤橋 進)

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