母親が“黒幕”の脱会屋と


“拉致監禁”の連鎖(224)パート10
被害者の体験と目撃現場(10)
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強制脱会活動の“黒幕”として活動する脱会屋の宮村峻氏=2012年東京地裁近辺で撮影

 舞さんが2回目の拉致監禁の被害を受けたのは1996(平成8)年2月。91年に最初の監禁を解かれてから5年ほどの間がある。

 舞さんの母親は、いったん自宅に帰り元の生活に戻った。しかし、先の監禁で頼ったナルド会でなく、今度はもう一つの「水茎会」に足繁く通うようになっていた。

 新しい生活の場となるはずの韓国で活動していた舞さんは、そんな両親や脱会屋らの動きを知るべくもない。

 「水茎会」は、荻窪栄光教会の森山諭牧師(故人)のもとに相談に来ていた父母らが中心となり85年に立ち上げた会だ。60年代半ば、森山牧師が、信者の強制改宗を進める中で、拉致・監禁を行う手法に手を染めたが、その活動のうわさが協会に反対する人たちを通じて相当に広がっていた。

 ただ、森山牧師は監禁した信者が信仰を貫き、脱会強要に頑として応じない場合は、しばらく「説得」を続けたあとそれを断念し解放した。拉致監禁の実行についても、大枠、信者の家族、親族に任せて行い自らが具体的に動くことはなかった。

 そうした中で森山牧師と早くからコンタクトを持ったのが、同教会近くで広告代理業を営む宮村峻氏だった。明治大学在籍中に全共闘活動などを行い、当時から、舞さんが所属した原理研究会の学生と学内や路上で激しく論争するなどし、以来、協会に対し異常なほどの敵愾心を持ったと言われる。

 森山牧師から「脱会説得」の手法を学び取ると、一転してキリスト教牧師らのやり方を「手ぬるい」と批判する一方で、同教会を拠点にして信者の拉致監禁、脱会強要の活動を進めていった。信仰を捨てない限り解放しないという高圧的に迫るやり方だが、信者の脱会成功率が高かった。

 そのため水茎会に参加する父母らは急増し、88年ごろには一時その数が400人にも達したという。彼らは荻窪栄光教会の礼拝参加を勧められ、その礼拝出席者数の増加とともに会計収入が飛躍的に伸びたといわれる。

 一方で、宮村氏の粗暴な振る舞いに教会信者からの批判が高まり、荻窪栄光教会は89年ごろ同氏を教会から追い出すに至った。水茎会も“黒幕”として動かす宮村氏に従うグループと、同教会に残るグループとに分かれ、後者は「ナルド会」を組織して活動を続けた。

 舞さんの母親は、最初の監禁の後、水茎会に参加した。後藤裁判で被告側が提出した元信者の陳述書では、母親がTBSに連絡して、そこの誰かから宮村氏を紹介してもらったと書かれている。舞さんが、後に小岩裕一牧師に会って、その辺りのいきさつを問うと、同牧師は「水茎会とナルド会に分かれた時、お母さんはナルド会の方に残っていたが、その後、宮村さんを探して水茎会の方にいったのではないか」とだけ答えたと言う。

 母親が宮村氏とどのようにつながったのか、その辺の事情はまだはっきりとは分からない。

(「宗教の自由」取材班)