翻訳が培うハングルの豊かさ、韓国作品が海外で文学賞


韓国紙セゲイルボ

 韓国人作家・韓江(ハンガン)氏の『菜食主義者』が英国のマン・ブッカー賞国際部門を受賞した。韓国作品が海外で文学賞を受賞したのは喜ばしいことだ。その喜びと光栄は何より作家のものだが、今回は翻訳者にもそれが与えられる。同賞が外国作家の英語翻訳作品に授けられるものであるためだ。

 興味深い記事がある。BBCによれば、「世宗大王(セジョンデワン)にも賞を授けるべきだろう」というのだ。翻訳者のテボラ・スミスはケンブリッジ大で英文学を専攻していたが、韓国語翻訳家がいないことを知って、独学で韓国語を学び、大学院は韓国学で学位をとった。いかにハングルが科学的とはいえ、わずか半年で文学作品を読むほどの解読能力を備えたことに、英国の公営放送は驚きを隠さなかった。だから今回の受賞はハングルそれ自体に与えられたものとも言えるのだ。

 文字としてのハングルはたかだか100年の歴史しかない。1894年の甲午改革で、民の文字として使われ出したが、植民統治による断絶を考慮すれば、せいぜい80年前後の駆け出し言語である。科学的に優れているとはいえ、そこに見合った多様なコンテンツを持てなかった。実際にわれわれの文字生活が豊かだということはできない。日本と比較するとより明確になる。

 すでに壬辰倭乱(文禄の役、1592年)以前に西洋文明と接触し、どうにか彼らを理解しようと努め、日本は近代化に成功し、一時は米国と世界の覇を競うほどであった。その渦中で日本人が翻訳に込めた努力は驚くべきでものだ。韓国で使われる多くの近代的概念語は日本人が作った訳語が大部分である。日本化させた彼らの近代はそれだけ豊かだ。

 それに比べて、われわれの文字生活はまだ努力が足りない。今からでも行わなければならないことはわれわれの息遣いと見解が込められた言葉を探して作っていくことだ。言葉を整えていく時間の歴史が増してこそ、韓国語が豊かになりえる。また、それだけ生活と精神の豊かさにつながる。

 子供が言葉を習いながら成熟するように、言語の可能性は多様なものとの接触の中で成り立つ。韓国語翻訳の重要さがそこにある。外国のものを移す過程で、多様性を得ながら、合わせて自らに対する客観的省察の契機となるのだ。

 『菜食主義者』の受賞に自惚(うぬぼ)れ、1回だけのことで終わらせてはならない。外国作品の韓国語翻訳が原書よりさらに高い水準になる時、韓国人としての自負心を享受できる。

(朴喆和(パクチョルファ)文学評論家、5月28日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。