昭和の日、命運決める国際情勢への対応


 きょうは「昭和の日」。昭和天皇の誕生日である。その遺徳を偲(しの)びつつ、激動の日々を経て復興を遂げた昭和の時代を顧み、日本の未来に思いを致したい。

 自由陣営を選んだ戦後

 昭和は、まさに「激動」の時代であった。15年に及ぶ戦争の末に300万人の犠牲者を出し、国土は焦土と化した。その後約7年間の連合国による占領期においては、過去の歴史や価値観がことごとく否定され、平和と民主主義が謳歌(おうか)され、国民の精神生活、世の中の思潮もがらりと変化した。

 このように日本が内外両面の激動を通過しなければならなかった一番の要因を改めて考えると、それは国際情勢の変化であり、それへの対応の結果であったと言える。

 国際情勢への対処方針を決定するのは、その国の指導者の情勢認識と判断である。それは、その国のよって立つ思想的な基礎に左右される。明治期には見事な外交を展開した日本が、軍事行動で解決しようという傾向を強めたのは、国内の思潮や風潮と無関係ではない。

 先の大戦への道はさまざまな要因が絡み合って形作られていったが、米英との戦争を決定づけたのは日独伊三国軍事同盟の締結だったことは間違いない。海軍はこれに反対で、昭和天皇も米英との協調路線を願われていた。日本の敗戦はこの時、ほぼ決していたと言える。

 戦後、日本は奇跡の経済復興を成し遂げる。平和を取り戻した日本人は、そのエネルギーを国の再建、とりわけ経済復興と成長に注いだ。その努力が実を結んだ。

 大戦終了後間もなく、世界は西側自由主義陣営と東側共産主義陣営の冷戦に突入する。その中でわが国が選んだのは、自由主義陣営の一員として、安全保障は米国に基本的に依存し、経済成長に専念するという道であった。韓国動乱の勃発で情勢が変わり、米国は再軍備を求めてきたが、時の宰相、吉田茂はこれを拒否した。この吉田路線が経済大国への道を開いた。

 吉田の選択が全面的に正しかったのか議論の余地はあるが、日米安保を基軸としたサンフランシスコ体制が戦後の繁栄の大前提であった。外交的な選択が国の命運を決することは戦後の歩みの中でも明らかだ。

そして今、わが国は大戦前にも等しい、国際情勢の激変に直面しようとしている。国際的な非難に全く聞く耳を持たず、南シナ海で人工島を建設し、地域の軍事支配を進める中国、ウクライナ南部のクリミア半島を併合したロシアなど、国連安保理の常任理事国が「力による現状変更」を公然と行い始めたのである。それに対し、米国がかつての影響力を失いつつある。第2次大戦後かつてなかったことが起きているのである。

 平和と繁栄が続くために

 力による現状変更は、中露だけではない。過激派組織「イスラム国」(IS)は、カリフ制の国家をシリアやイラクを中心にした地域に造ろうとしている。戦後日本の繁栄の前提となってきたシーレーン(海上交通路)の安全や領土・領海を守っていけるのか、情勢変化への的確な対応が求められている。