翁長知事を憂慮する 沖縄を「中国領」にするか


「龍柱」と「琉球独立」

 表題はこのごろ街頭に張られている広告用横断幕に書かれた翁長知事あての文句である。翁長沖縄県知事は那覇市長時代に、シナ皇帝のシンボルマークであった「龍柱」を、那覇市若狭町に2本建立する手立てをして中国理解者であることを表明したほか、親中国派の人々と親しげに談笑したり、日中間で現に問題となっている尖閣問題に殆(ほとん)ど口出しをしなかったり、米軍普天間基地の危険除去に力を尽くさなかったり、反米的である日本共産党・社民党・空想平和論者の方々と国策に反して行動を共にしている。売国徒と言われかねない翁長県知事への、県民の悲しい訴えである。

 沖縄県には確かに「琉球独立」を叫ぶ人々がおり、また、若い物知りと自称する人々によって設立された「琉球独立学会」等がある。

 翁長知事はついこの間まで自由民主党の「大立て物」であり、自ら戦って破った前仲井真知事の選対本部長であった。自民党の支えで県会議員・那覇市長に選出され務めさせてもらった恩もあっただろうが、その義理をちゃんと果たしただろうか。

 この大物がなぜ自民党の方針を裏切り、ありもしない「オール沖縄」なる世論という幽霊に誘われ、「普天間基地の危険性除去」という第一の責務を忘れて、事実上「普天間基地の危険を容認」し、反米軍基地派(日本共産党・社民党・新中国派等々並びに尖閣列島を自国の領土と叫ぶ中国理解者)の方々と手を組み行動を共にするのか。

 歴史を辿(たど)れば確かにある時期、「琉球国」はシナと仲良くしていた。その実態は、シナは大国であり戦って自己主張できる相手ではない。生き延びるためいろいろ模索したが「戦ってでも自己の主体性を主張する『適切な策』は見つからず」やむを得ず「生きのびる苦肉の策」として「シナの属国」になる道を選んだのだ。

 その証拠として、琉球王が変わる度にそのシンボルである「王冠」はシナ政府の使いの者からシナ製の冠を「戴冠」させられていた。又シナからの寄留民三十六姓の方々及びその子孫の方々から多くのご指導を仰いだのも事実である。しかし、こういう曲がりくねった非独立の属国関係を、21世紀の今再び取り戻そうと言うのか。時代錯誤も甚だしいと言わねばならない。

 1609年、「薩摩藩・島津軍」によって琉球国は打ち滅ぼされ、薩摩藩の属国となった。しかし、明治政府の「廃藩置県策」によって薩摩藩の属国は廃止され、1879(明治12)年に全国並みの「沖縄県」となった。沖縄県になるにあたっては県民間に賛否両論があったが、激論の末結局県民は「沖縄県」を選択した。1回目の民族自決(主権の主張)の現れであると言ってよい。

県民が選択した日本

 沖縄県の第二の民族自決は、1972(昭和47)年に行われた、当時「米軍統治下にあった琉球人の祖国復帰」であると言える。いや民族自決と言うより「県民自決又は県民の総意」と言った方が正しい。何れも賛否渦巻いたが結局我々の先達たちは「日本国」を沖縄県の祖国として選択した。これは歴史上明確にして且つ厳然たる沖縄県民の選択であった。これは沖縄県民の正しい自主的選択であったと私は理解している。

 翁長知事よ、いい加減ここいらで目を醒(さ)まし、本来の沖縄の姿を見定めて堂々と歩み、県民を再び迷わせてはならない。日本政府以上に県民を心から守り得る国はどこにもない。私達「沖縄県民」は・血統・風俗・歴史的に観て「日本人」であることは、れっきとした証拠がある。沖縄に今求められているのは、反対・闘いではない。平和と忍耐と努力である。(沖縄県在住)