独白する俳優・坂上忍のエッセイが面白い、新潮連載の「スジ論」


◆玉石混淆のエッセイ

 かつて新聞小説が隆盛だったころ、明日の新聞が待ち遠しくてたまらない、と言う主婦や、新聞購読をやめたくてもやめられない、というせわしない人を結構見掛けた。連載小説を読みたいと新聞購読を申し込む女性の計略を描いた松本清張の小説『地方紙を買う女』などは、こういった時代を念頭に置かないとピンとこない。

 新聞だけでなく週刊誌の中にも当時、連載小説で部数をぐっと増やしたところもあった。一点豪華主義で、読者を引きつけることができた。今日、その種の目玉があるかというと、疑わしい。かわって増えているのが、連載エッセイや連続インタビューの類。これが新聞や週刊誌で多くなった。

 週刊誌では、題材のバラエティを工夫して、どれか一つでも読者が食い付いてくれれば、といった意図がかなり見え見えで、言わば玉石混淆(こんこう)。

◆「ダメなものはダメ」

 そんな中、週刊文春・新潮、新聞社系の週刊誌で、筆者が気になって結局、毎週、欠かせないのは、『坂上忍のスジ論/わたしのルールブック』(新潮)。400字詰原稿用紙3枚半(1400字程度)のエッセイ。もっとも、日常生活の中で感じたことの独白なので週により原稿の質にでこぼこもあるが。今年分を拾っていくと。

 「ダメなものはダメ/それが優しさでもある」(1月28日号)では、例の人気女性タレントと人気バンドボーカルの不倫疑惑の話題を、早速とらえて次のように。「私が最も気になる」ことは「司会の方なりコメンテーターの方が、時に遠回しに、時にあからさまに擁護に回ること」。なぜ気になるかというと「擁護するということは、すなわち不倫を肯定することにもなりかねない」「不倫を肯定するということは、最たる被害者である奥様の気持ちを踏みにじることになるわけですから」と。

 「叩かれている人を守る行為は、一見優しさに溢れているように映る。しかしわたしは、同業者だからこそ擁護するのではなく、ダメなものはダメと言うことによって、逆にヨソからのバッシングを防いであげた方がよっぽど優しいんじゃないかってね。」「大の大人が間違いを犯した時に、『人間なんだから仕方ないよ』で済ませてはスジが通らない」と、断じている。

 「久しぶりに頭に血が昇っている」の書き出しの「相手に届かぬ挨拶は/挨拶とは言えない!」(3月3日号)。坂上が楽屋に入ると、スタッフたちが「おはようございます」と挨拶を返すが、ひとりの見習いの女子の声が聴こえない。以前から気になっていた。

 「いい機会だからと訊いてみたんです。『挨拶のひとつもまともにできないのか?』と……。/すると、彼女はなんて言ったとおもいます? 『言いました』……だって」

 カッチーン!ときて「いいか、挨拶というのは、相手さんが聞き取って初めて成立するものなんです。相手に言葉が届いていなければ、それは挨拶とはいえない」と説教。しかし彼女のリアクションがいかにも「被害者ズラ」だったので、坂上は楽屋からの即「退場!」を命じた。

 エッセイの締めは「と言いながら、大切なことは、これだけ言われても彼女が逃げないことなんですけどね。その勇気があれば、自然と礼儀や気遣いなど身に付くわけです。さて、どうなることやら……。」と優しい。いい話だ。

◆主婦業は立派な仕事

 「主婦はつらいよ/と肝に銘じる」(3月17日号)では「人目があるからこそ、わたし達は規則正しく責任を果たすことができる」「(専業主婦は)掃除、洗濯、炊事……それだけでも半日が潰れてしまう作業なのに、誰かに見られているかというとそうでもない」。「自力で自身を律することがどれだけ大変なことか。」というユニークな切り口で、「主婦業は立派な仕事です」と理解を示す。

 昨年まで、毎回見ていたのは、新潮の「まさる&りえこの週刊鳥頭ニュース」。1週間の出来事のキーワードを題に、評論家の佐藤優氏が綴(つづ)るエッセイ。短文で、佐藤氏のひらめきの文章に圧倒され、それこそ次号が待ち遠しかった。それが今年になって文章の字数が増え、読み切るのがつらくなった。好みの問題かもしれないが、エッセイのこわさだと思う。良いエッセイを見つけるのは読者の愉(たの)しみである。

(片上晴彦)