政治家の資質と不倫、指導者には高い倫理観必要


説明責任と私生活は別か、家族への思い語らぬ山尾氏

 最近、政治家の不倫騒動が何件か続いたことから、月刊誌12月号で「不倫」をテーマにした論考が目立つ。その一つは、有名弁護士との不倫疑惑という逆風の中、先の衆議院選挙で当選した山尾志桜里の「独白録」(「なぜ私は選挙に勝てたか」=「新潮45」)だ。

 山尾はこの中で、「大切なことは、目に見えない」という、サン=テグジュペリの『星の王子さま』の言葉を引き合いに出して、目に見えない価値を模索しながら「自分の言葉で語り続ける、そんな政治家になれたら」と述べている。彼女が言っているように、目に見えない大切なことを語るのは簡単ではないが、あえて言えば、精神的な価値ということだろう。

 独白録の中で、自分の政治信条を述べることは当然のことだ。しかし、不倫疑惑については、選挙の前も後にも説明責任を果たしたとはとても言い難い状況を考えれば、せっかくの独白なのだから、スキャンダルが巻き起こったことで傷ついたであろう、家族についての思いをわずかでも語るべきだった。それなのに、夫や子供、そして相手の配偶者についての思いを一言も口にしなかったことには、強い違和感を覚える。

 また、選挙戦のスローガンは「逆境」「安倍政権」「固定観念」の三つに「立ち向かう」だったという。メディアの下品な好奇心にさらされた被害者を演じるとともに、メディアという“敵”に立ち向かっていることを印象付けよう、とするしたたかさも伝わってきた。しかし、政治家としての信念を強く押し出す一方で、妻や母として夫や子供の心に、どのように思いを寄せたのか。そこにまったく触れずにいたのでは、目に見えないことを大切にする人間とは言えないだろう。

 不倫疑惑そのものに、私はそれほど関心はない。しかし、疑惑の相手を当選直後に、あえて事務所の政策顧問に起用することを明らかにするなどして、彼女を“バッシング”してきた一部メディアや世論を挑発するかのような行動に出たことには、興味が湧いた。

 そこで山尾についての新聞記事などをチェックして分かったことは、公私を分けることを一つの政治信条にしていることだ。神奈川新聞11月7日付に載った記事で、彼女は「公私にラインを引く」と言っている。さらに、不倫疑惑が持ち上がった直後、「私は『男女の関係はない』と答えたが、そうしたことを答える必要さえなかった」とも語っている。

 その文脈からすれば、不倫疑惑報道によって、家族や相手の配偶者を傷つけたことに対して、たとえ「申し訳ない」と思ったとしても、そのことはプライバシーの範疇(はんちゅう)だから、公の場で言及する必要はないということになろう。しかし、この公私を分けることを徹底する政治姿勢は、有権者にどれだけ支持されるのだろうか。

 「家族の価値」よりも「個人の自由」を重く考えるリベラルな有権者ならいざ知らず、多くは共感しないどころか、逆に反発を覚えるであろう。また、安倍政権に対しては、国会で「説明責任を果たせ」と批判してきたのだから、公私は別という言い分は、説明責任から逃れる方便と受け止められても仕方がない。

 政治家は、記者会見など公の場で家族というプライバシーを持ち出す必要はないと考えているとすれば、それはリベラルな政治家らしいともいえる。しかし、待機児童問題や子育て支援に取り組んでいることをアピールしておきながら、家族を大切にしないのは偽善ではないかという有権者の反応もあろうが、それも「固定観念」と言いたいのかもしれない。

 結局、山尾が政治家として、公私を分けることに重きを置くのは、政治家の資質を政策立案能力などに矮小化しているからではないか。社会を安定・発展させる上で、政治家に対する国民の信頼は不可欠である。政治家に一般人よりも高い倫理観が要求されるのはこのためである。しかも、政治指導者の生き様は、国の未来を担う次世代に強い影響を与える。それは公だ、私生活だと単純に分けられるものではない。

 社会学者の竹内洋は、「不倫は肯定されることとはいえないが、主に配偶者や家族などに関わる問題である」とする一方で、不倫報道ブームが続くのは、多くの人が「不倫はいけないという規範を実は心から内面化せず、我慢して従っているからではないか」として、配偶者以外の異性と交流する機会が多い現代で、不倫願望が拡大していることを指摘した(「有名人の不倫はなぜバッシングされるのか」=「中央公論」)。

 その上で、テレビや週刊誌が政治家をはじめとした有名人の不倫報道を過熱させる背景には、不倫を我慢している視聴者や購読者がいて、幸運にも有名人となった「政治家や芸能人が没落するのに手を貸し」ていることがあると分析した。

 確かに、テレビなど一部メディアの不倫報道にはうんざりさせられることもあるが、芸能人はともかく、政治家の不倫がメディアに取り上げられることに公益性があることは無視すべきでない。メディア側にその自覚があるかどうかは別問題だが……。

 そして、竹内は先の衆議院選挙における山尾の当選について、「リンチのような不倫バッシングブームに対する人々の飽和感情と疑念のはじまりも示しているのかもしれない」との見方を示した。しかし、不倫や不倫報道に対する社会の変化を、山尾の当選要因にすることはできないのではないか。

 リベラルな山尾の支持者には当然、リベラルな人たちが多い。すでに指摘したように、彼らはあらゆる面で個人の自由を優先させる傾向がある。そんな有権者にとっては、「安倍政権と立ち向かう」ことの方が不倫疑惑よりも、投票基準としては優先される条件であったことは間違いない。もし、これが自民党の男性議員であったら、立候補さえ許されなかったかもしれない。

 一方、動物学者の竹内久美子は「繁殖戦略」の違いから、人間を「真面目型」と「浮気型」に分けて、もし山尾が不倫に走ったとしても浮気型に属しているだけで、個人の人間性に問題があるわけではないとした。つまり、「こと『繁殖』の分野に倫理を持ち込むのはおかしい」というわけだ(「不倫、不倫と騒ぐなかれ?」=「正論」)。しかし、ここにも、親の不倫を子供がどう感じるか、そして社会の安定をどう維持するかという視点が抜け落ちている。これでは政治家の不倫は議論できない。竹内の意見は、不倫を動物の生殖戦略という、ちょっと角度の違った見方もあり、そうしたことも考えてみてはいかがかという程度のものだ。

 最後に、メディアの報道姿勢にも問題がある。山尾の不倫疑惑をスクープした「週刊文春」は、その後も追及記事を掲載している。「新潮45」が今回、山尾の独善性だけが際立った手記を掲載したことには、ライバル社への対抗意識もあったろう。有名人の不倫問題を「売らんかな」の販売戦略に利用するだけでなく、社会的・教育的な視点からまじめに切り込もうとしない論壇の責任も問われている。(敬称略)

 編集委員 森田 清策