帰順の政治学


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 百済(第21代)蓋鹵(ケロ)王の時代に再曾桀婁(ジェジュンゴルル)と古爾萬年(コイマンニョン)という将軍がいた。『三国史記』には「桀婁と萬年は百済の人で、罪を犯して高句麗に逃げた」と記録されている。そんな2人が歴史の流れを変えようとは、誰も思わなかったに違いない。

 蓋鹵王21年、西暦475年9月に高句麗の長寿王は3万の軍を率いて百済の首都、漢城(今のソウル)を急襲した。再曾桀婁と古爾萬年は高句麗の對盧(王を補佐する首相格の官職)である齊于(ジェウ)と共に百済の心臓部を攻撃した。2人は先鋒を務めたようだ。北城を陥落させた後、南城である慰禮城を包囲した。三国史記は「風を利用して火を放ち、城門を燃やしたので場内の人々はどうすることもできなかった。蓋鹵王は数十名の騎兵を率いて西に逃げた」と記しているが、王は遠くまで逃げられず、再曾桀婁に捕まった。王に一礼した後、顔に3回唾を吐いた再曾桀婁は、蓋鹵王を阿旦城に連行した。王はそこで最期を迎える。阿旦城は現在の峨嵯山城で、そこには高句麗軍の堡塁の跡が残っている。

 2人はなぜ高句麗に行ったのか。罪を犯したためではなさそうだ。それなら、どうして唾を吐いたのだろうか。蓋鹵王に本気で怒っていたことは明らかだ。高句麗の間者だった僧侶の道琳に唆された蓋鹵王は、華麗な宮殿と楼閣を造り、城を築いて財政を蕩尽した。蓋鹵王が息子の(第22代)文周(ムンジュ)王に残した最後の言葉は、「私が愚かで奸人を信じ、こんなことになってしまった。民は衰退して軍は弱くなったので、誰が私のために戦うだろうか」だったという。民心の離反こそ、2人が高句麗に帰順した理由であったようだ。

 北朝鮮の軍人がまた帰順した。死線と違わぬ東部戦線の軍事境界線(MDL)を越えてきた。非武装地帯(DMZ)の監視哨所(GP)11カ所を撤去した後に起こった最初の帰順だ。北朝鮮軍少将の子である呉青成氏が板門店の共同警備区域(JSA)で銃弾の洗礼をかいくぐって越境してから1年ぶりだ。南北和解の雰囲気の中でも南にやって来た脱北者は昨年1000人を超えた。なぜ脱出と帰順の行列が続くのか。蓋鹵王時代の百済と変わらない。

 (韓国にも)政治に嫌気がさした上に経済難まで重なって、「何もかも嫌だ」という人がかなりいる。「海外に移民にでも行きたい」のだそうだ。その社会共同体の危険を知らせる脱出と帰順。北朝鮮だけのことだろうか。

 (12月3日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。