ナッツと担架


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 1993年7月26日午後3時41分、アシアナ航空733便が木浦(モッポ)空港着陸直前にレーダーから消えた。飛行機には乗客と乗務員合わせて110人が乗っていた。3度着陸しようとして失敗した機長は4度目の着陸を試みたが、飛行機は空港から10㌔離れた全羅南道海南(ヘナム)郡花源(ファウォン)面馬山(マサン)里の裏山に墜落した。午後3時50分だった。

 飛行機が行方不明になったというニュースが伝わると即刻、報道資料を出して、事実をありのままマスコミに知らせた。緊急対策室を設置して行方不明の航空機の写真と諸元、特徴、事故履歴、乗客情報など、記者たちが関心を持つような内容を30分ごとにブリーフィングした。被害状況が具体的に分かる前に取った措置だった。墜落が公式確認されたのは、行方が分からなくなってから90分後だった。ある生存者(乗客)が馬川(マチョン)集落まで駆け下りてきて警察に申告した5時20分ごろだった。

 90分の間、アシアナ航空には何の情報もなかったが、最善を尽くした。滑走路など木浦空港の状況、外国の航空事故の事例まで急いでそろえて記者たちに提供した。マスコミは迅速で正直な資料提供のおかげで速報を送ることができた。特に救助隊が来る前に、馬川の住民たちが衣服などで担架を作って生存者を運び出す場面は全国民を感動させたが、これも記者たちが現場に到着する前だったので、広報チームがサービスした。

 その日の事故で66人が死亡し、44人が生き残った。人々は死亡者の数より生存者の数と馬川の住民たちをより長く記憶した。皮膚が裂けることも気にせず、傾斜の急な山を登ったり下ったりしながら献身的に救助活動を行った馬川の住民たちの“担架”にスポットライトが当たったためだ。事故が収拾された後、アシアナ航空の広報責任者はただの取締役から常務に昇進した。緊迫した状況の中でも落ち着いた迅速な対応でかえって会社に対する国民の信頼度を高めた功労が認められた。

 “ナッツ・リターン”事件として揶揄(やゆ)された大韓航空の趙顕娥前副社長による機内での権柄ずくの不正行為は、アシアナ航空の墜落事故といろいろな面で対比されるが、その欺瞞(ぎまん)性が際立っている。趙前副社長と大韓航空は虚偽事実を語るだけでなく、真実を隠蔽さえした。被害者は怒り、事件発生初期の偽りの謝罪と形だけの辞任はより大きな反発を呼んだ。さらに被害者を脅迫し、目撃者を懐柔までしたことが明らかになり、世論の手厳しい叱責が続いている。危機を機会に変える「真実の力」を知らなかったためだろうか。

(12月16日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。