釜山のカモメ


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 1984年秋、プロ野球、三星(サムスン)との韓国シリーズを控えたロッテの姜秉哲(カンビョンチョル)監督は記者会見場で「1、3、5、7回戦に崔東源(チェドンウォン)を投入して4勝3敗で勝つ」と語った。崔東源は即答した。「そら無理ではおまへんか」。姜監督の言葉、「やぁ東源、どうしたらええんや。俺たちがここまで来たんやから」。崔東源が「監督、そうでっか。いっぺん、やってみまひょ」と言いながら、こぶしをぐっと握った。マンガのような野球史の隠れた話だ。

 「不世出の投手」。崔東源の記録は簡単に越えられる記録ではない。彼は1983年、ロッテに入団して翌年、プロ野球で最初に優勝する当時、シリーズ7回戦のうち5回も登板する“鉄腕”の威力を見せ付つけた。ファンたちは「秋の奇跡」だと呼んだ。

 彼が大腸がんと闘病し、3年前の今頃あの世に逝く直前まで、野球に対する熱情と愛は変わらなかった。「私はプロ野球と生きた人間だ。何よりもロッテで長い間プレーしながらファンと一緒に過ごした時間が忘れられない。私は永遠のロッテファンになる」と言った。生と死の分かれ道でもプロ野球とロッテに対する深い愛がにじみ出ている。

 彼が所属していたロッテは名門球団だ。1982年に始まったプロ野球で2回優勝した伝統の強豪だ。ロッテはプロ野球の歴史だ。ロッテが輩出した選手は列挙することさえ難しい。崔東源をはじめ、柳斗烈(ユドゥヨル)、金用熙(キムヨンヒ)、朴正泰(パクジョンテ)、廉鍾錫(ヨムジョンソク)など、1人や2人ではない。今年、日本シリーズ優勝に貢献した李大浩(イデホ)がロッテ出身だということは野球の門外漢でも知っている話だ。

 ロッテといえば思い出すのが“新聞紙応援”だ。新聞紙をくるくる巻いて「釜山港へ帰れ」を熱唱する応援は、鳥肌が立つくらい胸に迫る。釜山湾の五六島(オリュクド)は、それでいっそう有名になったのかもしれない。引き潮の時に五島となり、満ち潮の時に六島となる光景を見ようと球都釜山を訪ねる観光客が数え切れないほどなので、新聞紙応援の威力は何とも表現しがたい。

 長く飛ぶと翼が折れるのだろうか。ロッテは2012年秋の準プレーオフに辛うじて進出したが、昨年5位、今年7位となる屈辱を味わった。

 相当数のファンが慶尚南道(昌原(チャンウォン))に拠点を置くNCに移った理由だ。悪いことは重なるもので、最近は球団と選手が不協和音を出しながら来シーズンも確約できなくなった。天上の崔東源が泥沼の争いを繰り広げる地上のロッテを見れば、どう思うだろうか。

 (11月8日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。