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徐載弼と新聞の日


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 今日は第58回新聞の日だ。1957年、韓国新聞編集人協会が徐載弼(ソジェピル)が1896年に創刊したわが国最初の民間新聞「独立新聞」の創刊記念日4月7日を新聞の日に指定した。言論界は大統領、与野党代表をはじめとする各界の主要人物を招請して4日、記念行事を開催した。朴槿恵大統領は祝辞を通して「分断の克服と共に社会の至る所に残っている非正常な慣行や制度を正常化すること」が言論界の重要な責務だと強調した。正しい指摘だ。

 これに勇気を得て敢(あ)えて物申したい。韓国の現代史で批判がタブー視される3人がいる。白凡(ペッポム)金九(キムグ)(白凡は号)と徐載弼、白楽晴(ペクナクチョン)ソウル大名誉教授だ。

 白凡は1948年、平壌で開かれた南北連席会議に参加し、結果的に北朝鮮で金日成の権力を強固にする手助けをし、米軍撤収の主張を盛り込んだ声明書に署名した。朝鮮戦争勃発に一定の責任があるという意味だ。大韓民国の建国にも反対した。しかし次男が(1961年に朴正煕氏が組織した)5・16軍事革命委員会の委員となることによって彼の過ちは拭われた。

 白名誉教授は父親が日帝(大日本帝国)の高位官僚を務めた親日派の家系だが、進歩路線のおかげで左派陣営から徹底して保護されている。

 徐載弼に対する評価は分かれる。徐載弼は19歳以前の名前で、その後は米国人フィリップ・ジェイソンと呼ばなければならない。フィリップは金玉均、洪英植、朴泳孝、徐光範と共に日本軍を後ろ盾にして甲申政変(1884年)を起こした“附倭逆賊”5人組出身だ。高宗と明成皇后(閔妃)を人質にして韓圭稷、尹泰駿、李祖淵、閔台鎬、閔泳穆などを刺殺して政権を握ったが、3日で失敗した後、日本に亡命した。その後、米国に渡ったが、金弘集(キムホンジプ)の“附日内閣”が発足すると1895年、米国人外部協辦(外務次官)の資格で帰国した。

 内務大臣の兪吉濬が国庫から5000ウォンをフィリップに渡して要請したのが独立新聞の発行だった。純粋な民間新聞ではないというわけだ。また、フィリップが主導して1896年につくった「独立協会」と「独立門」も日本からの独立ではなかった。日本の陸軍学校を出たフィリップにとって独立は清からの独立だった。独立門も朝鮮時代に清国の使臣を迎接した迎恩門と慕華館を壊してその場所に建てた。日帝強占期(日本併合期)にどうして独立門が健在だったのかうなずける。

 新聞の日を迎え、改めて独立新聞とフィリップについて考える時間を持とう。新聞の生命は「批判」だと言われているのだから。

(4月7日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。