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韓国の人文学は「奴隷」か「主人」か


セゲイルボ

 韓国の人文学が今日の窮地に追い込まれたのは日本植民地時期に導入された実証主義、特に「実証史学」と西洋科学の影響で導入された「専攻」を云々(うんぬん)するクセのためだ。

 「韓国の人文学を主人の学問か、奴隷の学問か」と問えば、奴隷の学問に近い。もちろん部分的に主人の分野もあるが、総合的に見れば奴隷側に近いという批判を免れない。

 韓国の人文学が奴隷の側にある理由はさまざまだが、概して自身が奴隷と分からないところにある。自身が奴隷と知らずにいると奴隷から抜け出すことができないという論理だ。

 今日、韓国の主流歴史学界の見解は日本植民地時期に成立した植民史学の枠を抜け出すどころか、より一層悪化させているといっても過言ではない。

 これは新しい研究と主張を打ち出さなければ、学者としての地位を高められないのに、新しい資料はないため、従来の主張を拡大解釈して、あたかも新しい主張のように偽装したり、言葉の遊びをしなければならない境遇であるためだ。

 韓国の歴史学は「専攻」の壁によって、総合的な見解を喪失して久しい。人文学者として備えなければならない包括的な知識、教養的・常識的知識もなしに、自身の専攻にだけぶらさがる風土は専攻を深化させるのではなく、人文学を亡ぼしており、人文学を「事大的奴隷の学問」に転落させている。学者らは「私の専攻ではないので」と言えば、すべての責任から免除されるものと思っている。

 韓国の人文学は主人の学問になるか、奴隷の学問になるかの別れ目にある。他国の学説をそのまま受け入れるだけならば、奴隷になるほかない。植民史学、植民国語学、植民国文学、植民哲学になってはならない。

(朴正鎮〈パクジョンジン〉客員論説委員・文化評論家、9月29日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。