
中国東北部地方、延辺などに住む朝鮮族の詩人だけを集めた詩集も、本書によって完結となる。趙光明は吉林省生まれで、新聞記者や編集者を経て現在はフリーランスのライター。
これまで、評者はこのシリーズの詩人たちを読んで、そこに朝鮮族という出自、現代の韓半島における政治状況が無意識に反映しているのではないか、という視点で取り上げてきたが、趙光明もその例外ではない。
だが、趙の場合は、それが民族的アイデンティティーというよりも、もっと奥にある原型、人間存在としての生と死の深層に錨(いかり)を下ろして、彷徨(ほうこう)しながら哲学的な問い掛けをしているといっていいかもしれない。
くしくも、解説で文学評論家・詩人の金龍雲が書いているように、「求道者の行脚」という表現がふさわしいだろう。
その本質を仏教的な「空」の概念から説明しているが、それだけ宗教的な色彩が詩全体に漂っているということでもある。
「道を開いた師よ/あなたは道の上に倒れる/道の上に住む師よ/あなたは道を分かりましたか/あなたが死に/あなたを殺した道/道はあなたを分かりましたか/道の途中で/道の外で/私は道の死であるしかない」(「道はどこへ行くのか」)
「みずから首を折って死んだ花/その花の死には 一滴の血も流れなかった/だから 土地は美しく/だから 花は死んでも 甘美で美しい」(「花の自殺」の冒頭)
「もう 水も行くよ/行く水の中にすべての魚たちも行くよ/永遠の命の水はどこにあるのか分からない/行くのに よいしょ よいしょ 生命は忙しい」(「放生(ほうじょう)」の冒頭)
詩人は詩を通して、自分の生の根源を問うと同時に、そのルーツにある見えない世界への手探りの探求を続けていく。
詩の言葉を読むと、そこから詩人から発せられる言葉が読み手に反響し、読み手自身のアイデンティティーを揺さぶるといっていいかもしれない。(柳春玉訳)
羽田幸男
土曜美術社出版販売 定価1980円