東日本大震災から13年でシンポ 宮城県山元町
=2月17日、宮城県山元町のつばめの杜ひだまりホール.jpg)
「伝承」テーマに意見交換 自然への畏怖の念忘れず
東日本大震災から13年を前に、津波で甚大な被害を受けた岩手、宮城、福島3県沿岸地域の小学校に当時在籍していた教員と生徒らによるシンポジウムがこのほど、宮城県山元町で開かれた。「伝承」をテーマに、震災時の生々しい状況報告やそこから得た教訓、また次世代が考える伝承の未来などが話し合われ、語り部の不足や若い世代への継承など、熱く語り合った。(福島支局・長野康彦)
子供の目線で話せる強み 気負わず〝語り部〟続ける
第1部では震災を経験した当時の教員と生徒3組がスライドで経験談を紹介。10㍍の津波が2階建て校舎2階の天井近くまで押し寄せた宮城県の中浜小学校では、井上剛校長(当時)の指示で校舎屋上へ避難し90人全員が助かった。
当時、同校3年生で現在は看護師をしている千尋真璃亜さんは「屋根裏倉庫で雪の降る寒い一夜を過ごした。運動会や学芸会で使った布や発泡スチロールで寒さをしのいだ。家族は生きているのだろうかと不安だった」と当時の体験を語った。井上さんは「地上でこれほど痛めつけられているのに、夜空を見上げると綺麗(きれい)な星空が広がっている。自然と人間の力の差を見せつけられた」と話した。また「語り部もバトンタッチする時期かなと思っている。若者に託したい」とし、「子供たちへ着実に伝えたい。そのためにはまず先生方に伝えたい」と、次世代への伝承の大切さを強調した。
海岸から約200㍍の距離に位置し、原発から10㌔圏内にある福島県浪江町の請戸小学校で当時教員だった佐藤信一さんは「校内放送の声が地震の揺れの音で聞こえなかった」「プールから水がバシャバシャあふれているのが見えた」など、当時の生々しい状況を説明。避難に際して「山の方へ向かって逃げろという判断が校長から出た。(海岸線に並行に進む)通常の避難ルート通りに避難しなかったことが結果的に良かった」と、緊迫した現場の状況判断を紹介した。
当時同校6年生だった横山和佳奈さんは「避難の記憶がほとんど無い。唯一、覚えているのは歩いている時、寒さで震えているのか余震で揺れているのかが分からなかった。田んぼの水たまりの水が揺れているのを見て地震で揺れていることが分かった」など、避難時の体験を語った。岩手県の高田小学校で被災した、当時教員の下村幸子さんと現在山形大学医学部看護学科3年の及川七聖さん(当時小1)は、伝承活動で伝えたいこととして、「津波は来ないだろうと思い込まない。さまざまな状況・避難手段を想定しておく。防災は日常に取り入れることができる」の3点を強調した。
第2部のパネルディスカッションでは、前出の若者3人が「次世代が考える伝承の未来」をテーマに意見を交換。まず伝承活動に携わることになったきっかけとして「20歳という節目に何か新しいことに挑戦してみたいと思うようになり、自分でできることが語り部だった」(千尋さん)、「請戸から人がいなくなり、人々の記憶から消えてしまうのではという危機感があった。残さなければと思った」(横山さん)など、それぞれの思いを語った。
語り部として自身の震災体験を語ることは、被災したその日に戻ることでもある。不幸な経験は思い出したくないものだが、心の負担はないのだろうか。
横山さんは「つらい思いが消える瞬間は、聞いてくれた人から感謝される時。話してよかったと思える。声を掛けてもらえることが嬉(うれ)しい」と語り、千尋さんは「泣きながら話を聞いてくださる人もいる。小学生(当時)ならではの思ったこと、子供の目線から話せることが強み。プレッシャーも大きいが頑張っていきたい。あまり気負い過ぎないことが続けていく上で大切だと思う」と話した。
いつまで伝承活動を続けていくのか、将来について横山さんは、「期限は決めていない。やれるところまでやりたい」と話し、千尋さんは「生きている限りはやっていきたい。無理のない範囲で」としながら「みんながそれぞれの場所で体験を語ればいい。災害はこれからも起こるので、防災に関して発信し続けていきたい」と意欲を表明。及川さんは「今、養護教員を目指している。学校教育で子供たちと関わる中で自分の経験を伝えていければ。必要とされれば話していきたい」など、3人それぞれが描く伝承の未来像を語った。