―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い

【特報】「私は引きこもりではない」 鈴木エイト氏を提訴した後藤徹氏 宗教脱会ビジネス再発を危惧

「引きこもり」。ジャーナリスト・鈴木エイト氏からテレビ番組でこう呼ばれた東京都在住の後藤徹氏(59)は、名誉毀損(きそん)で鈴木氏を訴える裁判を起こした。世界平和統一家庭連合(家庭連合=旧統一教会)の信者であるため、12年以上も閉じ込められて棄教を迫られた後藤氏は、「引きこもり」発言が大手メディアでまかり通ることで脱会ビジネスが再び活発化するのではないか、と危惧する。(宗教と政治取材班)

#15 「二度と犠牲者を出さない」検察は不起訴処分、後藤さんの闘いが始まった【後藤さんの闘い・解放から入院へ⑤】

両膝の痛み、栄養失調、脱水症状などで都内の病院に緊急入院となった後藤徹さんが車椅子で、診察室から病棟405号室に移ったのは2月11日午前1時40分(看護記録による)。歩けなかったので、ベッドの傍らにはポータブルトイレが用意された。

#14 「2年ぶりのカレーとあんぱん」あまりの嬉しさに涙がこぼれた【後藤さんの闘い・解放から入院へ④】

守衛からの電話で「13年」という監禁期間と「後藤」という名前を聞いた当時の統一教会広報部長・太田朝久氏が、「本物だ!」と興奮して叫んだのはどうしてなのか。

#13 「私も食口ですよ」A子さんとの出会い「全細胞が感動して」涙【後藤さんの闘い・解放から入院へ③】

東京・荻窪の監禁場所から歩き続けた後藤徹さんは、東京・渋谷の山手通りにある「松涛2丁目」交差点で、一歩も動けなくなった。それから、10分ほどたっただろうか。

#12 「本部まであと15分なのに」激痛が走る膝、痛む筋肉【後藤さんの闘い・解放から入院へ②】

後藤さんにとって、12年ぶりに外の空気を吸って自分の足で道を歩くことは、とても新鮮な感覚だった。長年にわたって閉ざされた空間で、同じ人の顔だけを見て過ごしてきたので、全く見知らぬ人が行き交っていることまでが目新しいものに映った。

#11 「2008年2月」生活が苦しくなり無一文で放り出された【後藤さんの闘い・解放から入院へ①】

「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」監禁部屋の荻窪フラワーホーム804号室に兄らの怒声が響き渡った。2008年2月10日午後4時ごろのことだった。

#10 ニンジンの皮、キャベツの芯「もう危ない」体力は限界に【後藤さんの闘い・東京荻窪⑦】

後藤徹さんのハンスト30日間も壮絶な日々であったが、その後の約70日間も、言葉ではとても表現し尽くせない過酷な日々であった。少々の重湯と1日1㍑のスポーツドリンク(ポカリスエット)だけという日がずっと続いた。重湯は、生米を鍋で煮た白い上汁で、1回の食事時に直径7㌢深さ5㌢ほどの丸い小鉢に7分ぐらいの分量だけ。まさに、食事制裁だった。

#9 「このままでは本当に殺される」ハンスト抗議の末に【後藤さんの闘い・東京荻窪⑥】

とうとう後藤さんは不惑の40歳になった。すでに監禁は8年に及んでいた。これまで何度も脱出を試みたが、その都度取り押さえられた。長期にわたる監禁による体力の衰えと力の行使に無力感を感じていた。そんな中で、ついに2004年4月に、21日間のハンガーストライキを決行したのである。

#8 上着はボロボロに破かれ、血は畳にしたたり落ちた【後藤さんの闘い・東京荻窪⑤】

手元に置かせてほしいと求め、いったんは拒否された「現代用語の基礎知識」を、家族は翌2000年1月になると持ってきた。また、このころから産経新聞が“支給”されるようになった。後の話だが、新聞は産経から東京新聞に変わり、それも06年6月ごろからは来なくなった。

#7 「畜生、ここから飛び降りてやる」続く膠着状態、先が見えず募る焦り【後藤さんの闘い・東京荻窪④】

昼間の時間は“無事に”過ぎていく。何事も起こらないからだ。後藤さんは、その間、ずっと聖書や統一教会の教理である原理講論、統一思想の本を読んで過ごした。

#6 「死んでしまいたい」家族からの拉致監禁、脱会屋の罵倒【後藤さんの闘い・東京荻窪③】

荻窪フラワーマンションに移ってすぐ、年が変わって1998年になった。1月初旬から9月まで、毎日のように脱会屋の宮村峻・会社社長が元信者らを引き連れて804号室にやってきた。そして、決まって夕方6時から夜8時ごろまで腰を据えていた。

#5 止まらない誹謗中傷、脱会屋「宮村峻」【後藤さんの闘い・東京荻窪②】

偽装し、家族の脱会強要のプログラムに合わせてきた後藤さんだが、常に自分を演出し続けることに、ついに耐えきれなくなった。荻窪フラワーホームに移って数日後、監禁部屋に兄を呼んで、ちゃぶ台を挟んで座らせた。

#4 「まるで犬扱い」監禁場所は東京だった 【後藤さんの闘い・東京荻窪①】

後藤徹さんが東京・保谷市(当時、現在・西東京市)の実家に帰ったところを拉致され、新潟市に連れて来られたのは1995年9月。そして1年9カ月を経て、東京に移された。

#3 「やはりいやな感じだ」事件は607号室で起きていた 【後藤さんの闘い・新潟③】

後藤徹さんは、監禁現場の部屋を「605号」室だと知り、そうメモに残したが、現場に行ってみると、そこは体が覚えていた角部屋ではなかった。そこで、昨日付の連載11で後藤さんの記憶を基に列記した、現場を特定できそうな事項と、連載7(11日付)で掲載したマンションの間取り図を基にして、該当する部屋を調べていった。

#2 偽装脱会もむなしく、崩壊しそうな精神状態 【後藤さんの闘い・新潟②】

新潟市内のマンションに監禁された後藤さんは、統一教会信仰の棄教を迫って、あれこれ画策する家族やキリスト教牧師を前に、ここからどうしたら出られるかについて思いを巡らせていた。結果、信仰を棄てたと見せ掛ける「偽装脱会」しかないとの思いに行き着いた。

#1 「しまった」気づいたときにはワゴン車に押し込まれた 【後藤さんの闘い・新潟①】

本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。

他のオススメ記事

Google Translate »