皇室の最新記事

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〝庶民第1号〟のご下問 復旧直後の昭和電工川崎工場へ~昭和21年2月 神奈川県編~【復刻 昭和天皇巡幸】

 《敗戦――。工場を見渡せば満身創痍(そうい)の廃虚。みんなが虚脱状態に陥り、田舎へ帰ろう、と言い出す者も少なくなかったあのころでした》と昭和電工川崎工場の工場長・渡瀬完三氏(当時47歳、現在昭和電工名誉顧問)は語る。

かなえられなかったご訪問 国体開催年に体調不良~沖縄編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

いつの日か沖縄へ──。昭和天皇は戦後、国内各地を精力的に訪れ、再建・復興に立ち上がる人々の仕事や生活をご覧になり、親しく慰め・励ましの声をかけられるなど直(じか)の触れ合いを大切にされてきた。昭和21年から29年までのご巡幸では全都道府県に足跡を残されたが、当時はまだ米軍占領下にあった沖縄にだけは足を延ばすことができなかった。

強行日程、九州最後の大分へ 園児たちが元気よく「お迎えの歌」 ~大分編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 九州ご巡幸は23日間にわたる長期間の前例にないご旅行、180余にのぼる数多くのご視察個所という強行日程のなかで行われた。その日程も陛下のご都合でお取りやめになったことは一度もなく、ご休養に充てた3日間も、1日はお取りやめ、その他も事情ご聴取などに費やされた。

盲学校で心温まる出会い 陛下のお手に、生徒の手触れる ~宮崎編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 昭和21年8月、夫正典氏の戦死の公報が宮崎県の串間北方町の家に届く。今でも大切に保存しているその紙は黄ばみ、文字も薄れて消えかかっている。ただ、墨で書かれた「山内正典」の字だけは鮮やかに読める。公報によると、戦死したのは昭和19年7月6日、場所はマリアナ諸島。乗っていた船と運命をともにしたらしい。

【連載】皇室典範改正―安定的継承の行方 (下)秋篠宮家批判に中国の影

国民から高い人気を誇る愛子内親王殿下への皇位継承を願う愛子天皇待望論がある。各種世論調査では、女性天皇を認めるべきという意見が過半数に上っている。

「御聖断」の舞台、復元・保存を 80年余、朽ちるがままに 戦後の出発点 皇居「御文庫付属室」昭和100年

激動の昭和史の転換点、敗戦からの復興へと歩みだす戦後の出発点となったのは、昭和天皇の終戦の「御聖断」だった。その御前(ごぜん)会議の舞台となったのが皇居の「御文庫(おぶんこ)付属室」だ。しかし、日本の運命を決した歴史的建造物は、80年余を経て朽ちるがままとなっている。苦難の歴史を風化させないため、復元・保存し、しっかりと後世に伝える必要がある。

【連載】皇室典範改正―安定的継承の行方(中)「女性天皇」にのしかかる重圧

 皇室典範第2条に基づき、皇位は以下の順序で継承される。①秋篠宮文仁親王(天皇陛下の弟)②悠仁親王(秋篠宮家の長男)③常陸宮正仁親王(上皇陛下の弟)。

【連載】皇室典範改正―安定的継承の行方(上)第一優先は旧宮家の養子縁組

安定的な皇位継承に関する国会の全体会議が15日、1年ぶりに開かれた。皇室典範に関する有識者会議の答申から4年以上が経過しており、7月中旬に迎える特別国会会期末までの皇室典範改正が願われている。

鹿児島の戦災孤児施設 陛下になつく子供たち ~鹿児島編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

孫文研究家、車田譲治氏の脳裏には今でも焼きついて離れない光景が二つある。

天草の各地に残る記念碑 上陸の陛下を島あげてお迎え ~熊本編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

熊本県天草の本渡市にある諏訪神社の境内に歌碑が建っている。昭和46年、天皇陛下の古稀を記念して歌人の橋本徳寿氏の歌を彫ったものである。

陛下のお姿は「巡礼」 「長崎の鐘」は鎮魂の歌 ~長崎編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 「長崎の鐘」(作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而)に歌われているように長崎はキリスト教会が多く、異国情緒あふれた街である。40年前にこの街の上空で原子爆弾が爆発し、約7万人の人びとの命を奪い、周りを焼きつくした面影は今ほとんど見られない。原爆で倒壊した浦上天主堂も、昭和34年に再建された。

長崎・「聖母の騎士園」 園児や職員と近く交わる ~長崎編1~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 《陛下がみえられたのは私たちにとって光栄であり、励まされました。感謝いたしました》

私立の久留米医大へ 一学生の熱意で異例の決定~福岡県編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 長崎県の大石共立病院院長の梶山茂氏(58)は、陛下の福岡県ご巡幸当時、久留米医大(現久留米大学)のまだ学生だった。学生の立場にありながら、すでにご巡幸の訪問スケジュールがほぼ決定されていた段階で、梶山氏は福岡県庁にかけあい、私立の久留米医大へのご巡幸を頼み込んだ。最終的には宮内庁まで出かけて決定に運んだのだった。

引き揚げ孤児寮ご訪問 陛下の服をつかんでどこまでも~佐賀県編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 みほとけの教守りてすくすくと生ひ育つべき子らにさちあれ  今上陛下の御製に歌われた孤児寮の因通寺「洗心寮」は、佐賀県三養基郡基山町に位置する。天皇陛下がご巡幸された昭和24年には、39人の孤児が収容されていた。その多くが中国、フィリピンで親を亡くして引き揚げて来た子供だった。

炭鉱の坑道奥深くでご激励 「海のそこのつらきにたへて」と御製 ~福岡編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 昭和24年5月18日、東京を出発したお召し列車は一路西下し、初めて関門海底トンネルを通過、福岡県小倉駅に姿を現した。ご巡幸行程全23日間、7県2000キロに及ぶ九州ご巡幸の第一歩である。

機械農業の児島郡興除村で 県下一の米作地、日本再建に貢献 ~岡山編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 天皇陛下は昭和22年12月8日、暮色せまる倉敷駅にご到着になり、山陰・山陽をめぐる中国ご巡幸の最終地岡山県に第一歩をしるされた。

陛下と広島5万の市民 すべてを語り、感激の涙 ~広島編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 昭和20年8月6日午前8時15分、広島県広島市上空に青白いせん光が走った。米軍のB29が落とした5トンの原子爆弾1個は、市内の約60%、約44平方キロを廃虚とし、人口31万2千人中、死者および行方不明約20万人を出すに至った。

励まし受けた原爆僧 ご巡幸が復興の大きな力に ~広島編1~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 朝倉義脩(ぎしゅう)師(旧姓増田修三)、49歳。現在真言大谷派山陽教務所所長として、姫路を拠点に広島との間を月に何度も往復し、信徒の教化活動に忙しい。

下関の引き揚げ者 「お言葉」で苦労忘れ ~山口編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 昭和22年、外地から9の引き揚げ者は実に74万3757人を数えた。下関市上田中町に住む前原正義氏(当時40歳)も、この年に中国の大連から引き揚げて来た一人である。戦時中は、大連に設置された州庁の警察部事務(衛生局)に勤めていた。

農業に励む戦争未亡人 「強く明るく子供のために」 ~島根編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 安来節で有名な安来市から、南へ8キロ、鳥取県との県境に近い能義郡は山間部の水田地帯である。その安田に住む長谷川キミ子さん(当時22歳)は、昭和14年11月、中国へ出征する夫の誠氏を鳥取県の米子駅で見送った。19歳で結婚してから、わずか3年目の初冬の日のことである。誠氏は、汽車の窓から腰半分以上のり出しながら、年若い妻を見つめた。

陛下のお目もうるまれて 島根の老農夫と若者たち ~島根編1~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 斐川町はその名の通り、斐伊川のほとりの湿地帯として知られている。斐伊川は古称を簸(ひの)川といい、ヤマタノオロチの伝説にゆかりのある川で平地よりも高い所を流れているため、古来から伝統的に高畦(うね)作業が行われた。その作業を陛下にごらんに入れてから、約40年が過ぎた。

孤児たち「ばんざい、ばんざい」 鳥取の養護施設で ~鳥取編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

 社会福祉法人鳥取こども学園(砂川晋治園長)の児童指導員の藤野興一氏(43)は、子供時代の思い出を語りながら、ポツリとつぶやいた。

陛下、旅館に初のご宿泊 斎藤茂吉らとなごやかにご歓談 ~山形編3~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

山形県上山市にある村尾旅館は、天皇陛下が初めてご利用になった民間の旅館である。二代目女将(おかみ)、村尾京子さん(72)は、昔ながらのいろりのある帳場で記者に語り始めた。

国民の総意は「ご留位」 〝退位〟めぐる論争 ~山形編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

ご巡幸は順調にいけば、昭和23年に終わるはずだった。だが、22年12月の岡山ご巡幸後、中止となる。社会党政権の誕生とそれ以後の政局不安、GHQ内の天皇制廃止派といわれるGS(民政局)の優勢、そのため当時の松平宮内府長官、大金侍従長などが辞職したことが原因に挙げられる。そして、この期間は敗戦直後に続いて、天皇退位論が国内外で一つのピークを迎えたときでもあった。

「昭和」の地で人生を開拓 開墾地の移住者たち ~山形編1~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

この日、陛下は飽海郡荒瀬指導農場、酒田市、大泉村、松ケ岡開墾地などを視察されたが、上田村役場2階でのこ昼食中、女子青年団350人が路上で県民歌「最上川」を奉唱申しあげると、陛下は窓辺までお立ちになり優しくほほえまれるという場面も見られた。

最後の空襲から復旧 秋田製油所、大きな励みに ~秋田編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

東京・杉並区井草の自宅で守屋専助氏(84)は、記者の前にバラの花をあしらったベージュ色のアルバムを差し出した。扉のページをあけると、「昭和二十二年八月十三日」と記されてある。天皇陛下が、秋田市土崎港町の日本石油秋田製油所を視察された際の記念写真集である。

満州の苦労乗り越えて 秋田の引き揚げ家族 ~青森、秋田編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

天皇陛下は昭和22年8月10日午後、岩手県から青森県三戸郡舘村にお着きになった。県下の優良馬22頭をご覧になったあと、同村の農家、田村太蔵氏の家にお入りになり、人と馬との一緒の生活を興味深くご視察。

機関士、使命感に燃え 岩手をゆくお召し列車 ~岩手編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

その年、7月の水害に見舞われた東北は、農作、木工、交通などさまざまな方面に被害を受けた。「水害で一段と食糧事情も悪化し、なお献上の品々なども被害のため予定のごとくいかず、万事お旅情を慰め申すのに十分ではあるまい」――純朴な県民は陛下に対し、どれだけ遺憾に思っているか知れない、と『新岩手日報』は当時の県民の心情を伝えている。

ほとばしる国歌「君が代」―宮城・みくに奉仕団 ~宮城編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

昭和20年5月25日、皇居の宮殿が焼失した。宮城は、美術・史跡保護のため、米軍の爆撃除外リストに含まれていたため一発も投弾されなかった。しかし5月25日夜の空襲で、皇居周辺の永田町、霞が関一帯は〝火の海〟と化し、それが皇居内へ飛び火したのである。

炎熱40度の坑内へ・地下450層―福島県・常磐炭田 ~福島編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

昭和22年8月。本格的な暑さは、ピークに達しようとしていた。宮内庁が関西に続いて行幸先と予定していた東北地方は7月、福島を除いて大水害に見舞われ、橋や道路などが破損した。

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