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【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(55)ニューギニアの戦い(下)戦略史家 東山恭三

ニューギニア西端の北に浮かぶビアク島は周囲約400㌔、淡路島の3倍ほどの平坦(へいたん)な島だ。昭和19年5月27日午前4時半、この島の南東モクメル海岸1㌔沖の海上に米軍艦艇が姿を見せ、激しい艦砲射撃を開始した。そして午前7時15分ごろ、水陸両用戦車を先頭に無数の上陸用舟艇が連なって海岸に押し寄せた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(54)ニューギニアの戦い(中)戦略史家 東山恭三

日本軍はポートモレスビー攻略の拠点として、ニューギニアの海岸沿いに東からブナ、ギルワ、バサブアと3カ所に小規模な守備隊を置いていた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(53)ニューギニアの戦い(上)戦略史家 東山恭三

昭和19年5月5日、大本営は古賀峯一連合艦隊司令長官の「殉職」を発表した。後を継いだ豊田副武大将は、敵の進攻をパラオと想定したが、米機動部隊はマリアナに向かう。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(52) 戦略史家 東山 恭三 海軍乙事件と福留参謀長(下)

 古賀峯一長官の一番機が消息を絶った頃、福留繁参謀長の乗った2番機も悪天候で進路を誤り、目的地のダバオには着けずセブ島東岸沖に不時着した。昭和19年4月1日未明のことだ。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(51) 戦略史家 東山 恭三 海軍乙事件と福留参謀長(上)

トラックの壊滅に続き、海軍はさらに失態を重ねた。海軍乙事件と呼ばれるが、山本五十六に続き、古賀峯一連合艦隊司令長官が行方不明の後に殉職。また福留繁連合艦隊参謀長がフィリピン・ゲリラに捕まり、携えていた次期作戦の機密文書が米軍の手に渡ったのである。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(50)トラック大空襲(下)驚くべき緊張感の欠如

トラック壊滅の原因は、偵察の不徹底や安易な警戒解除、劣弱な防御体制だけではなかった。最前線に近いトラックだが、島全体が平時の意識に囚(とら)われ緊張感の欠如は深刻だった。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(49) 戦略史家 東山恭三 トラック大空襲(上)

昭和19年2月17日、朝5時頃から米艦載機によるトラック攻撃が開始され、午後5時まで9次にわたって空襲が続いた。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(48)マーシャル諸島陥落 委任統治領の喪失の衝撃

ギルバート諸島のタラワ、マキンを押さえた米機動部隊(第58任務部隊)は年が明けた昭和19年1月末、マーシャル諸島に襲い掛かった。マーシャル諸島の防備は、海軍第6根拠地隊と第22、24航空戦隊、それに陸軍が加わり総兵力約3万2千人。しかし各島への分散配備で、その上、陸軍部隊が到着したのは19年に入ってのことだった。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(47)タラワ・マキンの戦い(下)

タラワ環礁ペティオ島の守備隊(第3特別根拠地隊)は、米軍の攻撃に備え陣地構築を急いだが、陸軍の増援は得られず、またセメントや金属など要塞(ようさい)構築に必要な物資も不足していた。そこで守備隊は椰子(やし)の木を活用した。島で手に入る唯一の資材だったからだ。伐採した椰子の木を丸太に加工し、半地下式のトーチカや陣地構築の資材に用いたのである。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(46)タラワ・マキンの戦い(上)

昭和18年後半、両洋艦隊法に基づき建造が進められていた新鋭艦が続々と米太平洋艦隊に配属された。それらを基幹に、ニミッツ大将の太平洋方面軍は最強の新艦隊を編成した。指揮官には、スプルーアンス中将とそれまで南太平洋方面軍司令官を務めていたハルゼー大将が交互に務めることになった。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(45)あゝラバウル海軍航空隊(下)

米軍地上部隊による占領作戦は中止されたが、後方連絡線を絶たれ孤立したラバウルへの米軍機の空襲は年が明けると激しさを増し、200機を超える日も増えた。そうした最中の昭和19年2月17日、トラック島が空母9隻を旗艦とする米機動部隊の大空襲を受け壊滅的打撃を蒙(こうむ)った。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(44)あゝラバウル海軍航空隊(上)

太平洋戦争中、ラバウルには多くの部隊が展開したが、その中でも特に馴染(なじ)み深いのが「ラバウル海軍航空隊」であろう。開戦劈頭(へきとう)の昭和17年1月、日本海軍は南方作戦の一環として豪州の委任統治領ニューブリテン島を制圧し、同島北東端ラバウルにある連合軍の航空基地を攻略、接収した。南太平洋における海軍の拠点トラック島を守るためである。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(43)海軍の戦線拡大症候群(下)

海軍はなぜ、これほどまでに戦線の拡大に執着したのか。国家としての確たる戦争指導方針や戦略の不在だけがその理由だったのか?戦史家の伊藤正徳や公刊戦史は野戦と海戦の違い、即(すなわ)ち陣地を重視する陸軍と、拠点よりも機動性を重視し戦場を己の欲する海面に求めようとする海軍の戦略思想の相違に求めている。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(42)海軍の戦線拡大症候群(上)

海軍は設定された絶対国防圏を事実上無視し戦線縮小に応じず、現状の線、即ち、国防圏の外郭に当たる当時の最前線死守に拘(こだわ)り続けた。だが国防圏設定から半年も経ずして、米軍の本格反攻の前に中部太平洋のマーシャル・ギルバート、さらにソロモンはおろかラバウルからも撤退を余儀なくされた。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(41)絶対国防圏の設定(下)

連合軍の本格的反攻を前に、戦勢逆転の見込みのない南太平洋でこれ以上の戦力消耗は甘受し得ずとする陸軍参謀本部は、戦略的後退と戦線の縮小を図り、所要戦力の維持整備と国力の造成に務めるべきだと考えた。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(40)絶対国防圏の設定(上)海軍は戦線の縮小に抵抗

昭和18年後半、米軍の攻勢を受け、南太平洋では戦線の後退が相次いだが、当時の日本の戦争指導の方針は「英ヲ屈服シ米ノ戦意ヲ喪失セシメル為引続キ既得ノ戦果ヲ拡充シテ長期不敗ノ政戦態勢ヲ整へツツ機ヲ見テ積極的ノ方策ヲ講ス」と定めた開戦直後の昭和17年3月7日に御前会議で決定された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」のままであった。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(39)ブーゲンビル島の戦い

中部ソロモンのコロンバンガラ島を素通りした米軍は昭和18年8月15日、西方のベララベラ島に上陸し、日本軍を島の北西部に追い込んでいった。第17軍司令官百武晴吉中将は同島守備隊に訣別(けつべつ)含みの電報を送り救出断念を仄(ほの)めかしたが、コロンバンガラ撤収作戦の成功を受け、一転海軍は収容を決定し、10月6日撤収作戦が発動された。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(38)コロンバンガラ島撤収

ガダルカナル島からの撤収後、日本軍は前線を中部ソロモン諸島に下げたが、昭和18年6月30日、戦力を整えた米軍はカートホイール作戦を発動し、中部ソロモン諸島の小島レンドバに上陸した。本格的攻勢の開始である。7月3日には日本海軍航空基地のある対岸ニュージョージア島のムンダにも兵を進め、中部ソロモンからの日本軍追い落としを図った。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (37)ガダルカナル撤収作戦(下)

ガダルカナル撤収作戦を担当した小沼治夫元第17軍参謀は戦後、「あと3日撤収が遅れていたら、日本軍は全滅していただろう」と述懐している。まさに間一髪、薄氷を踏む撤収作戦だった。米軍が島に揚がる前のキスカと違い、ガダルカナルでは半年前に上陸した米軍との地上戦闘が続き、劣勢な日本軍は島の西へ西へと追い込まれていた。厳しい戦局の中、しかも敵と対峙(たいじ)し交戦中の1万余の兵を救い出せた理由の一つは、作戦の秘密が保たれたことにある。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(36)ガダルカナル撤収作戦(上)

第1水雷戦隊によるキスカ島守備隊の収容は、巷間(こうかん)「奇跡の撤収」と呼ばれているが、キスカよりも遥(はる)かに厳しい条件の中、優に倍を超える兵員を救い出した作戦があった。キスカ撤収に遡(さかのぼ)ること半年前、最前線の島ガダルカナルからの撤収作戦がそれである。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(35)キスカ島撤収作戦(下)

キスカ撤収(昭和18年7月29日)は、米軍が包囲を解いた一瞬の隙を突く電光石火の如(ごと)き作戦であった。僚艦同士の衝突でキスカ湾突入が予定日より遅れたが、遅れたその日に偶々(たまたま)米艦隊が補給のためキスカ海域から離脱するという幸運に恵まれた。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(34)キスカ島撤収作戦(上)

昭和18年5月20日、大本営はアッツ救援を断念すると同時に、キスカ島守備隊の撤収を決めた。しかしキスカはアッツよりも東の最前線に位置し、早晩アッツと同じ運命を辿(たど)るものと思われた。そうした絶望的状況の中、海軍は不可能と考えられた撤収作戦を見事成功させ、守備隊全員の命が救われた。戦後の昭和40年、この作戦は東宝で「太平洋奇跡の作戦」として映画化され、広く世に知られるようになった。映画はフィクションも多いので、史実に従いながらキスカ作戦を振り返り、奇跡を可能にした要因を探ってみたい。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(33)玉砕の島アッツ(下)

昭和18年5月29日夜8時頃、総攻撃を決意した山崎保代大佐は生存者約300人を本部前に集合させ、指揮官として全滅に至らしめたことを詫(わ)びるとともに、武人として立派な最期を遂げることを望むと訓示した。その後、全員が日本に向かい「天皇陛下万歳」を三唱、最後の電報を打った後、無線機を破壊した。この日午後、大本営に宛てた電報では、総攻撃の態勢が次のように報告されている。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(32)玉砕の島アッツ(上)

昭和17年6月3~5日にかけてアリューシャン作戦が発動された。角田覚治少将の率いる第4航空戦隊(空母龍驤、隼鷹)はダッチハーバーの米軍基地を空襲。6日には陸軍の北海支隊がアッツ島、7日には海軍の第3特別陸戦隊がキスカ島に上陸し、共に無血占領した。アッツ島守備は陸軍、キスカ島守備は海軍の担当とされ、主力はキスカ島に置かれた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(31)対日反攻と古賀新長官

これまで見てきたように、連合艦隊司令長官山本五十六は真珠湾作戦以後の明確な戦略を持ち合わせていなかった。ひたすら攻勢を掛け続け米海軍を壊滅に追い込み、早期講和の機会を掴(つか)むという程度の短期決戦構想しかなかったのだ。だがミッドウェイでの大敗とソロモンの消耗戦で、勝機も講和獲得の機会も遠のいた。多くの搭乗員と航空機、艦艇を失ったばかりか、彼我国力の格差は日増しに広がる一方であった。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(30) 山本五十六像の形成 阿川ら戦後秩序に則った山本像

我々が知る山本五十六とは、①英米との協調を重視し軍縮条約成立を目指す条約派で②対米戦回避のため三国同盟に強く反対したが叶(かな)わず③己の信念とは真逆に連合艦隊司令長官として対米戦に想を練り④真珠湾作戦を立案、成功させ大戦果を挙げた稀代(きだい)の戦略家で⑤最前線で指揮を執る中、米軍機の攻撃を受け戦死を遂げた悲運の提督というもので、没後80年を経て、今や不動の山本像と言ってもよかろう。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(29) 人間・山本五十六の実像 部下思いの情の厚さと尊皇の念

真珠湾攻撃で名を遺(のこ)した山本五十六だが、戦略家というよりも軍政家として評価されるべき人材だった。連合艦隊司令長官ではなく、海軍大臣が相応(ふさわ)しかったのではないか。ところで多くの処世訓や格言を残した山本は、統率力に溢(あふ)れ、また情に厚く部下思いの指揮官だったと思われている。果たしてどうか。側近や部下など当時の山本を知る人たちの証言や記録を基に、人間・山本五十六の実像を追ってみた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(28) 戦略家・山本五十六の実像(下) ミッドウェイの拙劣な作戦指導

ミッドウェイ作戦については、米空母の撃滅か島の占領なのか、作戦の主目的が曖昧だったと批判されている。発案者の山本五十六自身が両目的を併存させ曖昧な考えでいたのだ。空母撃滅は、制海権の獲得以上に空母艦載機による日本本土空襲の阻止に狙いがあった。日露戦争の際、ウラジオ艦隊が太平洋岸を襲い、国民が動揺を来した事態の再来を彼は恐れたのだ。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(27)戦略家・山本五十六の実像(上)強引に漸減邀撃戦略を変更

連合艦隊司令長官となった山本五十六は、日米戦不可避となった場合、尋常一様の戦法では日本は勝機を掴(つか)むことができず、「桶狭間と鵯越(ひよどりごえ)と川中島を併せ」(昭和16年10月嶋田繁太郎海相宛て書簡)た奇想天外の作戦が必要として、開戦劈頭(へきとう)の真珠湾奇襲攻撃を強引に主導した。結果、米太平洋艦隊の戦艦群に大打撃を与えたが、彼の戦略思考には大きな問題があった。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(26)軍政家・山本五十六の実像(下)三国同盟反対は組織防衛から

昭和11年12月、山本五十六は廣田弘毅内閣の海相となった永野修身(おさみ)に請われ、海軍次官に就任する。その6日前(11月25日)、日本はドイツと防共協定を締結、翌年にはイタリアが加わり三国防共協定となった。3年9カ月にわたり山本が海軍次官の職にあった間、この防共協定を事実上の軍事同盟へと強化する動きが生まれる

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