赫き群青

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(34)キスカ島撤収作戦(上)

昭和18年5月20日、大本営はアッツ救援を断念すると同時に、キスカ島守備隊の撤収を決めた。しかしキスカはアッツよりも東の最前線に位置し、早晩アッツと同じ運命を辿(たど)るものと思われた。そうした絶望的状況の中、海軍は不可能と考えられた撤収作戦を見事成功させ、守備隊全員の命が救われた。戦後の昭和40年、この作戦は東宝で「太平洋奇跡の作戦」として映画化され、広く世に知られるようになった。映画はフィクションも多いので、史実に従いながらキスカ作戦を振り返り、奇跡を可能にした要因を探ってみたい。

赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(33)玉砕の島アッツ(下)

昭和18年5月29日夜8時頃、総攻撃を決意した山崎保代大佐は生存者約300人を本部前に集合させ、指揮官として全滅に至らしめたことを詫(わ)びるとともに、武人として立派な最期を遂げることを望むと訓示した。その後、全員が日本に向かい「天皇陛下万歳」を三唱、最後の電報を打った後、無線機を破壊した。この日午後、大本営に宛てた電報では、総攻撃の態勢が次のように報告されている。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(32)玉砕の島アッツ(上)

昭和17年6月3~5日にかけてアリューシャン作戦が発動された。角田覚治少将の率いる第4航空戦隊(空母龍驤、隼鷹)はダッチハーバーの米軍基地を空襲。6日には陸軍の北海支隊がアッツ島、7日には海軍の第3特別陸戦隊がキスカ島に上陸し、共に無血占領した。アッツ島守備は陸軍、キスカ島守備は海軍の担当とされ、主力はキスカ島に置かれた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(31)対日反攻と古賀新長官

これまで見てきたように、連合艦隊司令長官山本五十六は真珠湾作戦以後の明確な戦略を持ち合わせていなかった。ひたすら攻勢を掛け続け米海軍を壊滅に追い込み、早期講和の機会を掴(つか)むという程度の短期決戦構想しかなかったのだ。だがミッドウェイでの大敗とソロモンの消耗戦で、勝機も講和獲得の機会も遠のいた。多くの搭乗員と航空機、艦艇を失ったばかりか、彼我国力の格差は日増しに広がる一方であった。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(30) 山本五十六像の形成 阿川ら戦後秩序に則った山本像

我々が知る山本五十六とは、①英米との協調を重視し軍縮条約成立を目指す条約派で②対米戦回避のため三国同盟に強く反対したが叶(かな)わず③己の信念とは真逆に連合艦隊司令長官として対米戦に想を練り④真珠湾作戦を立案、成功させ大戦果を挙げた稀代(きだい)の戦略家で⑤最前線で指揮を執る中、米軍機の攻撃を受け戦死を遂げた悲運の提督というもので、没後80年を経て、今や不動の山本像と言ってもよかろう。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(29) 人間・山本五十六の実像 部下思いの情の厚さと尊皇の念

真珠湾攻撃で名を遺(のこ)した山本五十六だが、戦略家というよりも軍政家として評価されるべき人材だった。連合艦隊司令長官ではなく、海軍大臣が相応(ふさわ)しかったのではないか。ところで多くの処世訓や格言を残した山本は、統率力に溢(あふ)れ、また情に厚く部下思いの指揮官だったと思われている。果たしてどうか。側近や部下など当時の山本を知る人たちの証言や記録を基に、人間・山本五十六の実像を追ってみた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(28) 戦略家・山本五十六の実像(下) ミッドウェイの拙劣な作戦指導

ミッドウェイ作戦については、米空母の撃滅か島の占領なのか、作戦の主目的が曖昧だったと批判されている。発案者の山本五十六自身が両目的を併存させ曖昧な考えでいたのだ。空母撃滅は、制海権の獲得以上に空母艦載機による日本本土空襲の阻止に狙いがあった。日露戦争の際、ウラジオ艦隊が太平洋岸を襲い、国民が動揺を来した事態の再来を彼は恐れたのだ。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(27)戦略家・山本五十六の実像(上)強引に漸減邀撃戦略を変更

連合艦隊司令長官となった山本五十六は、日米戦不可避となった場合、尋常一様の戦法では日本は勝機を掴(つか)むことができず、「桶狭間と鵯越(ひよどりごえ)と川中島を併せ」(昭和16年10月嶋田繁太郎海相宛て書簡)た奇想天外の作戦が必要として、開戦劈頭(へきとう)の真珠湾奇襲攻撃を強引に主導した。結果、米太平洋艦隊の戦艦群に大打撃を与えたが、彼の戦略思考には大きな問題があった。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(26)軍政家・山本五十六の実像(下)三国同盟反対は組織防衛から

昭和11年12月、山本五十六は廣田弘毅内閣の海相となった永野修身(おさみ)に請われ、海軍次官に就任する。その6日前(11月25日)、日本はドイツと防共協定を締結、翌年にはイタリアが加わり三国防共協定となった。3年9カ月にわたり山本が海軍次官の職にあった間、この防共協定を事実上の軍事同盟へと強化する動きが生まれる

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (25)軍政家・山本五十六の実像(中)航空機を対米必勝の切り札に

山本五十六が軍政面で力を注いだ分野に航空機がある。元来砲術屋であった山本が航空機に関心を持ったのはハーバード大学に留学中、当時の米国駐在武官で海軍の航空機開発を主導した上田良武大佐の薫陶を受けた時といわれる

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(24)軍政家・山本五十六の実像(上)曖昧だった軍縮への姿勢

山本五十六に対する戦後の評価は、概(おおむ)ね肯定的である。即(すなわ)ち、親英米の山本は海軍の良識派に属し軍縮の実現に努力、また対米戦を避けるため日独伊三国同盟締結に強く反対した。だが思いは叶(かな)わず、それどころか対米戦の最高責任者を命じられる。己の信念と職責の相克に苦しみながらも、卓越した戦略家の山本は日本が対米戦で勝利し得る唯一の方策として真珠湾作戦を発案、万難を排し奇襲攻撃を成功させ世界戦史に名を遺(のこ)す大戦果を挙げた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(23)山本連合艦隊司令長官の死(下)死を覚悟しての前線視察

人の好き嫌いが激しい山本五十六は、作戦参謀の黒島亀人を異常なまでに重用する半面、最側近の宇垣纏(まとめ)参謀長を常に遠ざけ、ほとんど口も利こうとしなかった。だが、ガダルカナル島からの撤退後、作戦の行き詰まりから山本は心機一転を期すべく黒島の更迭を決意し、それを境に疎遠だった宇垣との距離を縮めるようになった。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史 (22)山本連合艦隊司令長官の死(上)行動予定を把握していた米軍

い号作戦終了後の昭和18年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官は幕僚らを帯同し、最前線であるブーゲンビル島方面の基地視察と兵士の激励に赴いた。2機の陸攻に分乗した一行は午前6時にラバウル東飛行場を離陸、旅程はまずブーゲンビル島南端の先にあるバラレ島に飛び、その後、ブーゲンビル島のショートランドとブインの各基地を視察してラバウルに戻るものであった。零戦6機が護衛についた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(21)い号作戦と航空消耗戦 山本司令長官が独自で発動

大本営海軍部は、開戦から昭和17年4月ごろまでを第1段作戦、4月から昭和18年3月ごろまでを第2段作戦と呼称し、第2段作戦では占領地の拡大と米英艦隊の補足撃滅を目標に掲げた。だが、ミッドウェイの敗退とガダルカナル喪失で計画は挫折。そこで、ガダルカナル撤収作戦の終了を受け、新たに第3段の作戦方針を示した(昭和18年3月25日)。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(20)ガダルカナルの死闘(下) 戦死者2万、大半は飢餓と疫病

現地を見ず、知らず、不正確な地図だけを眺め、将棋の駒を動かす気安さで陸軍中央の幕僚は作戦指導に当たった。この悪癖が、ガダルカナルやニューギニアの悲劇を生み出した。情報も持たされず島に送り込まれた現地部隊の前には、日本人の想像を絶する深いジャングルが横たわっていた。前を進む兵士の姿さえ見失うほどの密林をやっとの思いで抜け、いざ攻撃となるや、今度は中国戦線では体験したことの無い凄(すさ)まじい火力が浴びせられた。だがこの島では、米軍との戦闘よりも、食糧不足と疫病が最大の敵となった。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(19) ガダルカナルの死闘(中) 円滑さを欠いた陸海軍の連携

米軍の強襲に慌てた海軍は、ガダルカナル島の奪還を陸軍に諮った。だが陸軍参謀本部には、飛行場設営の話はおろか島の名さえ知らない者がほとんどだった。陸軍の認識不足の背景には、日本軍の構造的問題が横たわっていた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(18) ガダルカナルの死闘(上) 補給支援考えぬ無謀な進出作戦

昭和17年初め、日本海軍は占領した南方地帯の安全確保のため、ニューギニアからソロモン諸島、さらにフィジー・サモアを攻略し(FS作戦)、この東西の線で米豪を遮断し米軍の西進を阻止しようと考えた。4月にニューギニアのポートモレスビー攻略(MO)作戦が発動され、5月3日、横浜航空隊はソロモン諸島南端ガダルカナル島沖の小島ツラギとその属島タブツ、タナンボコ両島を強襲、豪軍を制圧し水上機基地を開設する。ポートモレスビー攻略に際し、ソロモン方面から珊瑚(さんご)海に飛来する米軍機の偵察、哨戒が任務であった。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(17) 敗退の予兆(下)「マレー沖」の英雄、陸攻隊壊滅す

真珠湾攻撃で多くの戦艦を失った米海軍も、年が明けた昭和17年初めには空母機動部隊を編成し対日反攻に動きだす。機動部隊はソロモン、マーシャル方面の日本軍島嶼(とうしょ)基地を相次いで強襲、2月20日には、ブラウン中将が指揮する第1任務部隊(空母レキシントン基幹)がニューブリテン島東方海域にまで進出し、ラバウルの空襲を企図した。ラバウルは1月23日に陸軍の南海支隊が占領し、日本軍が基地を設営したばかりであった。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(16) 敗退の予兆(中) 対日反攻の早さ読み誤る 米軍の戦闘意欲の高さも侮る

さらに3月に入るとハルゼー部隊は南鳥島を空襲、また第1、17任務部隊の艦載機約60機がニューギニアのラエ、サラモアに停泊する日本の輸送船11隻などを撃沈破した。そして4月にはドウリットル中佐が日本本土空襲を敢行し、軍首脳や国民に衝撃を与えた。

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(15)敗退の予兆(上) 活かされなかったウェーキの戦訓 飛行場建設や要塞化能力が戦局左右

これまで太平洋戦争初戦において赫赫(かくかく)たる武勲を挙げながら、悲劇的な最期を遂げた南雲(なぐも)忠一と山下奉文(ともゆき)という二人の軍人の軌跡を辿(たど)ってきた。だが二人の共通点はそれに留(とど)まらない。軍最高首脳との関わりが彼らの人生や後世の評価を左右した点も似ている。最高首脳とは、南雲にあっては山本五十六、山下は東條英機だ。

他のオススメ記事

Google Translate »