今も残る開拓の足跡
空にはためく赤い五稜星は、北海道開拓のシンボルだ。明治2年、政府は蝦夷地と呼ばれていた北海道に開拓使を設置。その背景には、ロシアという北方の脅威から日本を守る目的があった。新天地で移民たちは、産業発展と街づくりに汗を流した。札幌周辺に今も数多く残る史跡から、開拓に尽くした人々の足跡を追う。(辻本奈緒子、写真も)
街づくりに奮闘した移住者
◇開拓の村で見る移住者の暮らし
「開拓精神に感動した」
野外博物館となっている「北海道開拓の村」(札幌市厚別区)に新潟県から訪れた女性は、そう口にした。「雑木林しかないようなところを今のような技術もなく手作業で開墾したというのは、並大抵ではなかったはず」と、移住者たちの苦労に思いを馳せる。
北海道開拓の村は、明治から昭和初期の道内各地の建造物を移築復元・再現した体験型のテーマパーク的施設だ。旅館や商店、寺院、教会まで、当時を再現した街並みを歩きながら、開拓当時の移住者の生活を垣間見ることができる。
小樽沿岸を中心にニシン漁で成功した漁家、青山家の邸宅は見ものだった。中に入ると土間の左は漁夫たちの寝泊まり部屋、右が親方の居住スペース。漁夫たちの部屋には囲炉裏、畳まれた衣服なども置かれ、当時の家にちょっとお邪魔したような気になる。「部屋には50人ほどが寝泊まりしていた」と、ボランティアの男性が教えてくれた。
外国人観光客も興味津々の様子。2回目の来日というフィリピン人の男女2人は、リーフレットを見て興味を持ち訪れたと話していた。
北海道を国土として確立するには当然、そこに住む人が必要だ。明治政府は本土からの移住を推進したが、災害で家を失った人、新たな信仰の理想郷を求めた宗教者など、人々はさまざまな理由で新天地にやって来た。現在の地名にも、入植者の出身地から名付けたものが少なくない。空知地方の新十津川町は奈良県十津川村で水害に遭った人々が入植した所で、道央の北広島市などもその例である。
◇兵農二役を務めた人々
北海道開拓を語る上で欠かせないのが、屯田兵の存在だ。その目的は、ロシアの南下に備えた国防に加え土地の開墾も担う兵農両面の人員を配備することだった。
最初の屯田兵が入植した琴似(西区)には琴似屯田兵村兵屋跡があり、自由に見学できる。展示物と言っても土間に農具が無造作に置かれ、小上がりに囲炉裏のある和室、機織り機と裸電球が見える。屯田兵はこうした兵屋で極寒の冬を越し、決められた時間に寝起きして農業や開発工事に従事、軍人として軍事教練も受けた。寒冷地仕様の兵屋の提案もあったが、費用がかさむため普及しなかったという。建物の裏には屯田兵の自家農園を再現した菜園があり、タマネギやカボチャ、トウモロコシなどが栽培されている。
明治8年から32年まで道内各地に37の中隊が置かれ、7337戸が入地。家族を含めて4万人に上る。屯田兵が実際に出兵したのは10年に九州で起こった西南戦争だったが、当時樺太で日本人が暴行されるなどきな臭い情勢にあったロシアとの関係を思うと、屯田兵が抑止力として機能していたことは想像に難くない。
◇「碁盤の目」の街づくり
札幌に着いてみて面白いと感じたのは、「中央区北1条西2丁目1」(札幌市時計台)というような住所表記。南北の数字と東西の数字で表すため、地図を見れば記者のような観光客にも歩きやすい。
これも開拓使の街づくりに端を発する。現在の大通の緑地帯基線に、北を官庁街、南を商業地区と住宅街に、創成川の東側を工業地区とした。街は60間(108㍍)四方を1区画として、まさに「碁盤の目」の様相に整理された。開拓当時、京都の街並みを模してこの形にしたという話もある。
土地と人を育てた米国人との協力
◇2人の紳士の出会い
札幌市街、大通公園の一角に、2人の紳士の銅像が互いを見交わすように並んでいる。一人は北海道開拓長官を務め、後に第2代総理大臣となる黒田清隆。もう一人は開拓史に大きな功績を残した、お雇い外国人のホーレス・ケプロンである。
明治4(1871)年1月、開拓次官だった黒田は米国視察の際、開拓の技術顧問となる人物を求めた。豊かな土地と資源を持ちながら未開の地であった北海道の開発に、当時国土開発を活発に進めていた米国を模範にしようとしたのだ。
「この私が行こう」――。米政府の農務省局長(農務長官)だった67歳のケプロンは、黒田の熱意に心動かされ、職を辞して7月に来日する。当時としては異例の出来事で、年俸は破格の1万㌦だった。
ケプロンは積極的に道内を調査し、その風土を把握した上で農業、工業、鉱業、水産業、道路建設や人材育成まで、多岐にわたる提言をした。黒田はケプロンの助言によく従い、2人は北海道開拓に欠かせない存在となった。
◇東京にも残るゆかりの地
「いつまでも外国人技術者に頼ってはいけない」
人材育成の重要性を強調したケプロンの要望でつくられた教育機関が、明治5年に東京に置かれた開拓使仮学校だ。開拓の担い手となる青年を養成する場所として生徒100人を受け入れ、卒業すれば官費生は10年、私費生は5年、北海道開拓に従事することが義務付けられた。校舎は現在の東京・港区にある増上寺の境内にあった。
今も芝公園、南東側の片隅に、開拓使仮学校跡の石碑がひっそりと佇んでいる。石碑は目立たないが、仮学校は札幌に移ってから札幌農学校となり、現在の北海道大学へと実を結ぶ。
「少年よ大志を抱け」の名言で知られるクラーク博士は、札幌農学校の教頭として招聘された。マサチューセッツ州立農科大学の学長だった博士が、生徒数たった24人の同校へはるばる赴任したのも異例中の異例。博士は農業技術だけでなく、教師と生徒に禁酒禁煙の誓いを立てさせるなど、キリスト教の教えを基に道徳教育を施そうとした。教え子には北海道帝国大学総長となる佐藤昌介や「二十世紀梨」を命名した渡瀬寅次郎らが名を連ねる。
観光スポットととして有名な札幌市時計台(中央区)はもともと札幌農学校の演武場で、クラーク博士の構想で建てられた。
◇受け継がれるビール醸造
ケプロンと共に来日した鉱山技師のアンチセルが、野生のホップを現在の岩内町で発見したのは、明治4年のこと。北海道の風土が大麦の栽培に適していることも分かり、開拓使による日本初のビール事業の布石となった。札幌開拓使麦酒醸造所として同9年に操業。この流れを汲んだのが、大手ビールメーカーとして知られるサッポロビールだ。現在もサッポロビールのロゴマークには、開拓使のシンボルと同じ五稜星が使われている。
サッポロビール工場跡地から1・5㌔ほど離れたサッポロビール園(東区)には博物館が併設され、開拓使の事業として始まったビールづくりにまつわる歴史を紹介している。入館は無料。
明治8年に帰国したケプロンは亡くなる前年の同17年、明治天皇から勲二等旭日章を受章した。日本での滞在期間は3年10カ月であった。