トップ社会大空襲・焼け跡の都下へ ~昭和21年2、3月 東京編~ 【復刻昭和天皇巡幸】

大空襲・焼け跡の都下へ ~昭和21年2、3月 東京編~ 【復刻昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
かつて都立第四高等女学校だった、現在の都立南多摩中等教育学校=26日、東京都八王子市(佐野富成撮影)
かつて都立第四高等女学校だった、現在の都立南多摩中等教育学校=26日、東京都八王子市(佐野富成撮影)

 東京は見渡す限り一面黒々とした焼け野原と化した。

 昭和17年4月18日、東京上空に「ノース・アメリカンB25」16機が初めて姿を現し、次々と焼夷(しょうい)弾を投下した。後に東京空襲といわれる本格的な攻撃の前ぶれである。本格的な空襲は、やがてマリアナ諸島に”空の要塞(ようさい)”B29重爆撃機の発進基地が完成した後だった。

 東京は、20年3月10日と5月25日の大空襲によって壊滅的な打撃をこうむった。特に、かねてから備えていた防空態勢では到底及びもつかなかった3月10日の大空襲では、『東京都戦災誌』などの資料によると、死者が約8万人にも上った。これは大正12年の関東大震災の死者数約6万人を、はるかに上まわる。

 現在、東京・新宿区の早稲田鶴巻町で電気店を営む岩田正久氏(67)も、5月の空襲によって焼け出された一人である。

 《あたしは、16年ごろに召集されたんですが、なんたって胸膜(肺結核)をやってね、帰されちまったんですよ。ふた月で帰されたかな》

 江戸っ子らしく歯切れのいい言葉で、岩田氏は当時を語り始めた。

 《この辺が焼け出されたのは、焼夷弾というより、もらい火ですね。あたしの家では、みんな疎開していて、残っていたのはおやじとあたしだけ》

 空襲では、着のみ着のままで避難所の川向こうの公園へ必死で走った。岩田氏は、逃げるとき地べたが熱くてたまらなかったことを覚えている。翌日、避難先と決められていた国民学校へ移動した。そこで白昼の校庭に焼夷弾が落下して来るのを目撃。

 《焼夷弾の燃えている切れっぱしがバラバラと落ちて来たのを、必死になってむしろで片っぱしから消しとめたんですよ》

 そして、運命の8月15日を迎えた。玉音放送を聞く。

 「…堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」

 陛下の、それが初めてのお声を聞いたときの複雑な心境を、「さみしいが、やれやれとした気持ちも」と、岩田氏は率直に表現する。

 《虚脱感というか、ガタッときた。思いがけなかったですよね。なんたって勝つつもりで訓練もしていましたしね…》

 戦後しばらく、避難先の国民学校の教室をベニヤ板で区切った部屋で生活する。65世帯、260人が住んでいた。廊下には、各家庭の炊事道具が並べられてあった。岩田氏は、食べることに苦労した思い出のほかは、あまりよく覚えていないという。

 《雑草なんかもかまわず食べてね。そんな不自由な生活でもありがたいことだった。宿舎に入れなかった人もいましたから》

 バラックは、空襲で焼け残った木切れを使って建てた。炭のように焼けた木を取り除くと、下に生焼けの木切れが残っていた。当時の思い出はみな食べ物につながる。例えば、ガレキにまいたカボチャの種が、世話もしないのによく生長してたくさんの実を結んだ。それをゆでて食べた。茨城や千葉に買い出しに出かけ、警察につかまったこともある。

 昭和21年2月11日付の当時の新聞に、天皇陛下の都下ご視察予定の記事が掲載された。それには、「来る14、16日の両日ごろ東京旧市内、三多摩各地を巡幸」とあったが、実際のご巡幸は、2月28日と3月1日の両日で、戦後初めての神奈川県ご巡幸に続くものだった。東京都下への行幸は、戦時中3月10日の大空襲跡を視察されて以来のことになる。3月18日のそのご視察で、陛下は藤田侍従長(当時)に次のような感想をもらされている。

 「関東大震災のときは馬で市中を回ったが、大きな建物が少なかったこともあろうが、何もかも焼けてしまっていて、それほど無残には見えなかった。しかし、こんどははるかに無残だ。コンクリートの残骸も残っているし、胸が痛む。東京もこれで焦土になってしまった」(『天皇裕仁』から)

八王子織物工業統制会当時と変わらない場所に立つ、現在の八王子織物工業組合の建物=26日、東京都八王子市(佐野富成撮影)
八王子織物工業統制会当時と変わらない場所に立つ、現在の八王子織物工業組合の建物=26日、東京都八王子市(佐野富成撮影)

 ご巡幸初日の28日は、2月には珍しく春めいた暖かな日だった。陛下は、午前9時に宮城を出られて、銀座通りに向かわれた。日本橋、神田などを経て、早稲田鶴巻町に至り、岩田氏など戦災者の住む国民学校を訪れられた。

 外出していた岩田氏は間に合わず、陛下が黒塗りの自動車に乗られて、大勢の人びとに見送られる後ろ姿を見ただけだったという。

 《ただ、うちのおやじは陛下にお声をかけられました。年をとっていたので、あわれだと思われたのでしょう》

 正久氏の父久吉氏(当時57歳、故人)は、あまりの感激にひれ伏して泣いたという。

 この日のご巡幸に関して、当時の新聞は「罹災(りさい)民の前に立たせられた時の陛下は最早(もはや)国家の元首としての陛下ではなく、罹災民の心の傷をやさしくいつくしんで下さる慈父としての陛下」(『毎日新聞』昭和21年3月1日付)と書いた。

感激に女学生たち泣く

 陛下に随行した入江相政(すけまさ)前侍従長(当時侍従)は、東京ご巡幸で一番印象的な出来事は、という記者の質問に、こう答えた。

 《新宿の伊勢丹前で、群衆の間から大変なバンザイの声が起こりました。それが非常に印象的でしたね。だれも号令をかけたわけでもなく、自然発生的なバンザイでした。それから八王子では、女学校が焼けて、それを女学生が自分たちの手で復興した。そういう所に陛下をお迎えした若い女学生たちが大泣きに泣いた姿が忘れられません》

 当時の陛下と都民との、深いきずなを表す心温まるエピソードである。

 【ご巡幸メモ】

 東京ご巡幸のコースは、2月28日が銀座通りから京橋第一相互ビル、日本橋浜町、神田旅籠町、早稲田鶴巻町、新宿伊勢丹などを回られ、翌3月1日は府中国民学校東光寮、八王子織物工業統制会、都立第四高女などをご視察。第一相互ビルでは、都下展望のため初めてエレベーターをご使用になった。

 本文は掲載当時のものです。

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