トップ社会皇后さま、戦災孤児をお慰め~昭和21年2月 東京都編~【復刻 昭和天皇巡幸】

皇后さま、戦災孤児をお慰め~昭和21年2月 東京都編~【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸

 〽赤いリンゴにくちびるよせて

  だまってみている青い空

  リンゴは何にもいわないけれど

  リンゴの気持ちはよくわかる

 …………………………………………………

 戦後、焦土と化した東京の街に底抜けに明るいメロディーが流れた。「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)である。昭和20年10月11日に封切られた映画「そよ風」の主題歌であり、並木路子の甘い声に乗って、全国的にヒットした。

 当時の闇市でリンゴは1個5円、大工さんの日給が35円(東京)の時代だった。戦争は終わったが、人びとは敗戦の痛手で打ちひしがれていた。それでも東京の街には、バラックが建ち、復興の槌(つち)音が澎湃(ほうはい)と起こっていた。

香淳皇后(宮内庁提供)
香淳皇后(宮内庁提供)

 翌21年2月22日、戦後初めて皇后さまが宮城の門を出られた。一番先にお訪ねになったのが、戦災孤児を収容する養護施設「双葉園」(高島巌園長)だった。

 双葉園は現在、都中部の杉並区西荻南4丁目に位置し、旧国鉄西荻窪駅から約10分の所にある。今では、当時の面影を偲(しの)ぶべくもないほど瀟洒(しょうしゃ)な鉄筋づくりの建物に変わっている。

 しかし、約40年前の21年当時は、普通の民家に過ぎなかった。故高島巌園長の娘で現園長の昭子さん(57)は「5月25日の大空襲で、杉並区神明町の施設が全焼したので、民家を買収して移ったんです」と説明する。この民家は、幸い、その後のB29の空襲にも焼け残って原形をとどめていた。そこに皇后さまをお迎えしたのである。

 《(皇后さまのご来臨は)父がラジオで聞いて知ったらしいのです。当時は、何もないときですから。電話も何も。それで急いで帰って来て、近所から応接セットやら何もかも拝借して、準備しましてね》

かつて「双葉園」があった東京都杉並区西荻南4丁目の場所(道路左沿い)。現在は昭島市に移転=23日(賀好広撮影)
かつて「双葉園」があった東京都杉並区西荻南4丁目の場所(道路左沿い)。現在は昭島市に移転=23日(賀好広撮影)

 双葉園は、昭和8年の児童虐待防止法制定とともに、設置された事業所「子どもの家」(千代田区須田町)が前身となっている。本来は、親などに虐待された子どもを保護する施設だったが、大戦で空襲が激しくなってからは、戦災孤児もひきとるようになった。

 《私の覚えているのは、3月の空襲のあとで、焼け出された子どもたちが親からはぐれて、何人も来ていたことです。名前も何もわからない子もおりましたし、それから、当時は全部住所とか名前とか血液型を書いたものを胸に縫いつけていたので、その布の焼け残りから推定したとか。あるいはちっちゃな三つぐらいの子が、自分をチャーちゃんと呼んでいたので、これはサヨちゃんじゃないかとか。そんなこともありました》

 宮城県の南郷村に疎開していた児童を除いても、あのころ数十人の子どもがいたのではないかと言う。その数十人の子どもたちが皇后さまをお迎えした。皇后さまはこういう孤児たちを慰められたのである。当時の関係者によると、孤児の頭を御手(おて)でやさしく撫(な)でられたという。

 《私は外にいて、よく覚えていないのですけれど、護衛のMPが土足のままで、床の間を歩きまわったりして、まわりの人が憤慨していたそうです》

 昭子さんの父・高島巌園長は、皇后さまをご案内してから、最後に得意の〝ノコギリ音楽〟を皇后さまの前で奏でて聴いていただいた。これは、「両膝の間で、大きな西洋鋸(のこ)を彎曲(わんきょく)させ、先方の細い方を元へ戻しながら、背の方に、セロの弓を当てるとド・レ・ミの音階が生じる」(伊手健一氏=星野卓郎編著『こどもの家から五十年』より)という原理を応用したものだった。

 彎曲の反(そ)りと弓の当て方、ひき方により、ボーンという音響を背景にして、まさに〝森の中の妖精の踊り〟とでもいうようなメルヘンの世界が生じる、と当時の一部の人びとの間で愛されたものである。

 昭子さんは、ノコギリと弓を持って来て、記者に奏で方を見せてくれた。確かに、どこから見ても何の変哲もない少しさびの出たノコギリでしかない。これで、バイオリンのような美しい音色が奏でられるのだろうか。

 《父はだいぶ昔、日比谷公会堂でこのノコギリ音楽を聞いて、ノコギリでさえ、このような歌ができるのか、と感動して始めたんです。父は「大工のノコギリでさえ立派な歌を歌うのだから、どんな子どもたちでも歌えないはずがない」という持論でした》

 昭子さんによれば、これはどんな子どもでも、教育すれば立派な人間になることができるという意味だという。

 その高島巌園長は、51年5月に帰らぬ人となっている。昭子さんは、自分のノコギリ音楽はあまり上手ではないんですよと笑う。

 《皇后さまがノコギリ音楽をよくご存じだったのは、穂積重遠先生(児童虐待防止法の起草者で、「子どもの家」会長)が、時事問題でご進講の折、天皇陛下にお話し申し上げたからではないでしょうか》

 自分はひけないけれども、と言いながら、昭子さんはカセットに収録してあるノコギリ音楽を聴かせてくれた。カセットから流れてくる音楽は、とてもノコギリから生まれるとは思えないほど透明で哀愁に満ちていた。曲は「埴生(はにゅう)の宿」だった。

 《皇后さまが来られたのは国民として本当に思いも及ばないことですね。非常に名誉なことであり、あの時代とてもありうべきことではなかったと思うんです。後になってから、大変なことだったんだなあと実感がわきましてね》

 昭子さんは冬日の光を浴びてほほえんだ。

【ご巡幸メモ】

昭和21年2月22日、皇后さまは東京の双葉園と赤羽済生会を回られ、戦災孤児、流産した女性、満州からの復員者などを慰問された。この年の秋に皇太子殿下の家庭教師になったヴァイニング夫人は皇后さまの印象を「はにかみやで、感じの鋭い、しかし親しみのあるお方」と著書『皇太子の窓』に記している。

(本文は掲載当時のものです)

=第4月曜日掲載=

 「昭和天皇巡幸」は本紙で1985(昭和60)年1月2日~2月9日と同年4月1日~30日に連載され、加筆修正後、創芸社から単行本化されました。なお本欄は当時の掲載順とは異なります。

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »