

《敗戦――。工場を見渡せば満身創痍(そうい)の廃虚。みんなが虚脱状態に陥り、田舎へ帰ろう、と言い出す者も少なくなかったあのころでした》と昭和電工川崎工場の工場長・渡瀬完三氏(当時47歳、現在昭和電工名誉顧問)は語る。
川崎の埋め立て地に並ぶ工場地帯に、約10万坪(33万平方メートル)の敷地を持つ同工場は、相次ぐ空襲で焼夷弾(しょういだん)約千発を受け、なかでも昭和20年7月25日、そして8月1日の夜間空襲では250キロ爆弾約600発を浴びて、工場は致命的なダメージをこうむり、生産は完全にストップした。
しかし一人、渡瀬氏は玉音放送を聴きながら、工場復興の決意を固めた、という。翌16日朝8時、従業員を事務所前へ集合させた。
「戦争は負けて終わった。しかしながら、日本民族は生きていかなければならない。幸い農村は健全だ。食糧増産のための化学肥料を作ろう」
と、工場復興の必要性を説き、「戦(いくさ)以上に粉骨砕身せよ」と訓戒した。
渡瀬氏の決意と従業員一同の血と汗と涙の結晶が、ガレキのなかから何とか年内の「硫安」出荷へとこぎつけた。

そして翌年2月19日、天皇陛下をお迎えした。
雪模様の曇り空だった。午前9時45分、供奉車わずかに1台という略式の自動車鹵簿(ろぼ)が、緊張した面持ちの従業員が整列した玄関へすべり込んだ。陛下をお迎えできるような事務所もなく、急きょ作られたテントの下で、森暁社長が工場の概況を奏上した。その後、工場ご視察の説明役として渡瀬氏が陛下をご先導。
《私の一つ一つのご説明に対して、しばらく間をおいて「あっ、そう」とお答えになる。けれどもそのとき、陛下の方からはご質問されなかった。ご心痛だったに違いないのです》
なにしろ、工場のなかはいたる所穴だらけ。パイプは切断され、機械は横倒しのまま、ムキ出しの鉄骨が飛び出している。そのころ圧縮機係長の前場幸吉氏(当時34歳)は、工場内の復旧作業に追われる毎日だった。その前場氏が陛下から歴史的な“庶民第1号”としてのご下問を受けたのは、陛下が電解工場のご視察を終えて出て来られたときである。
《先導の渡瀬さんが見えたので、「敬礼」と号令をかけ深くおじぎをしました。先導の方がたが前を通り過ぎたので、陛下もてっきり通り過ぎられたと思ったので頭をあげると、真正面にグレーのソフトと濃いグレーのオーバーをお召しになっている陛下がお立ちになっていたんです。しかも目がピタッと合ってしまった。そして陛下が1メートル前まで来られたときは、自分が悪いことでもしたのかとびっくりしてしまい、「しまった」と思った。お付きの人も思いがけない陛下の行動に驚かれた様子で引き返して来ました》
それまでの陛下の行幸といえば、軍服姿で白い馬にお乗りになり、沿道には憲兵の監視の目が光っていた。民衆は最敬礼のままなので、陛下のお顔さえ拝見できなかった。

陛下はかなりゆっくりと、
「何年勤めているのか」
「住宅や生活に不便はないか」とお尋ねになった。
「おかげさまで何とかやっております」とお答えしたそのときの前場氏の姿は、底にボール紙を張った靴をはき、ボロボロの作業服だった。毎日の食事もカボチャとか配給の南京(ナンキン)米をおかゆに混ぜて食べ、住まいも戦災に遭い、捨てられた市電やバラックのなかを住み歩いていたという。
企画課の事務員だった佐久間信子さん(当時25歳、旧姓葛葉〈くずは〉)は、初めて仰ぐ陛下の前をMP(進駐軍憲兵)が横切ったりする姿には、なんとも腹立たしかった、という。
「大切に金庫にしまっているんですよ」と陛下からご下問を受けたときの写真と、皇室関係の新聞の切り抜きを見せてくれた。
《陛下とお会いしてから何かしら皇室と親しくなったようで、新聞に載ると今でも切り抜き、テレビの特集も欠かさず見ています。当時の記憶は歳月とともに薄らいで来ましたが、陛下とお会いしたときの印象は今でもハッキリ覚えています》
佐久間さんにお声をかけられたのは、工場の視察を終えられた帰り際。佐久間さんはただオロオロとしてうなずくばかりだった。
《最敬礼してお見送りしていたんですが、せめて後ろ姿だけでも見たいと思って頭をあげたんです。すると2、3歩行きかけた踵(きびす)を返して近づいて来られて、「何年勤めているのか」と。もうポーッとして何を言ったかわかりません。ただ「あっ、そう」とかん高くて、語尾のあがるおやさしい声は今でも消えません。あとはドキドキ、体は、ガタガタ震えてしばらく仕事が手につきませんでした》
今では、孫を持つ佐久間さんだが、ご巡幸の件を身内にはあまり話したことがない。
《もったいなくて。それに話したら偉くなったみたいで悪いでしょ》
と、陛下との“出会い”は佐久間さんの胸のなかに大切な宝としてしまっている――。
《残留している満州方面の日本人を随分勇気づけた、と聞いています。また工場の士気を鼓舞したことはもちろんで、生産もそのあとたいへん上がりました。川崎のほかの工場もいつまでも虚脱状態ではいけない、ということでやっと動き出したようですよ》
と、すでに86歳となる渡瀬氏は遠くを見つめるように語っていた。
【ご巡幸メモ】
昭和21年2月19日、昭和電工を皮切りに日産重工、神奈川県庁、横浜市西区藤棚町の稲荷台共同宿舎などを陛下は回られた。同宿舎では縁のないすり切れた畳の上に出しっ放しの鍋、釜もそのままの部屋を残らずご覧になった。翌20日には久里浜、浦賀方面の外地復員者、引き揚げ者の援護施設をご視察なさっている。
「昭和天皇巡幸」は本紙で1985(昭和60)年1月2日~2月9日と同年4月1日~30日に連載され、加筆修正後、創芸社から単行本化されました。なお本欄は当時の掲載順とは異なります。






