

いつの日か沖縄へ──。昭和天皇は戦後、国内各地を精力的に訪れ、再建・復興に立ち上がる人々の仕事や生活をご覧になり、親しく慰め・励ましの声をかけられるなど直(じか)の触れ合いを大切にされてきた。昭和21年から29年までのご巡幸では全都道府県に足跡を残されたが、当時はまだ米軍占領下にあった沖縄にだけは足を延ばすことができなかった。
ご巡幸にひと区切りをつけられたあとも毎年、恒例化された春の植樹祭や秋の国体(国民体育大会)などの機会に地方巡りを重ねられた。だが、念願の日本復帰後も沖縄ご訪問は昭和62年にあと一歩のところまできながらも、かなえられなかった。
その心残りを詠まれた昭和天皇の御製(昭和62年)がある。
思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
各県ごとにスポーツの覇権を競う国体は、スポーツを復興させ、荒廃した国民生活に希望を与えるための祭典として昭和21年に始まった。昭和天皇が皇后とともに初めて国体開会式に公式出席されたのは、東京ラグビー場で開催された24年の第4回大会からで、前年の第3回福岡大会では天皇杯、皇后杯を下賜された。以後、昭和天皇の秋季国体開会式出席は61年の第41回山梨国体まで38年間にわたり休みなく続けられた。
翌昭和62年の第42回秋季国体の開催地は沖縄県だった。
昭和天皇はこの年に思わしくない体調となられた。4月29日、86歳の誕生日を祝して催された宴会の儀で、食べものをもどされた。また夏の那須滞在中からも食べたものをもどされるなどの症状が続き、9月20日に観戦予定の大相撲国技館観戦が中止された。2日後の22日には宮内庁病院に入院され「慢性すい炎の疑い」で手術をされた。
手術後はほぼ順調な回復をとげられ、12月には公務に復帰されたが、10月に予定されていた沖縄海邦国体出席を兼ねた初の沖縄訪問は取りやめとなった。昭和天皇は、約19万人もの多大な犠牲者を出した沖縄に特に深い思い入れを持たれ、その訪問を強く希望されていた。その矢先に病に倒れ、長年の願いがかなわなかった気持ちを詠まれたのが前出の御製である。また、手術後間もない9月下旬、訪問中止を正式発表した際に発表された談話には「思いもかけず、病気のため、今回の沖縄訪問を断念しなければならなくなったことは、まことに残念です。健康を回復したら、出来るだけ早い機会に訪問したい」と次の機会への強い希望を語られた。

38年間休みなく、国体開会式ご出席
昭和天皇は、それまでも機会あるごとに沖縄への強い思い入れと訪問を希望される言葉を発して来られた。
昭和28年10月の第8回秋季国体は四国4県を会場に開催された。松山市で開かれた開会式では、初参加の沖縄代表を先頭に選手団が入場行進し、観客の熱い視線を集めた。
昭和天皇は御製に
沖縄の人もまじりていさましく広場をすすむすがたうれしき
と、国体初参加の沖縄代表の行進を見て喜ばれる気持ちを詠まれた。
沖縄復帰記念式典が行われたのは昭和47年5月15日である。このときは「この機会に、さきの戦争中および戦後を通じ、沖縄県民の受けた大きな犠牲をいたみ、長い間の労苦を心からねぎらうとともに、今後全国民がさらに努力して、平和で豊かな沖縄県の建設と発展のために力を尽くすよう切に希望します」とのお言葉でねぎらわれた。

沖縄海洋博が開催された昭和50年は沖縄ご訪問の一つの機会であったが、県民感情や警備上の理由から見送られた。この年の10月に昭和天皇は記者会見で「戦後、私は各地を巡幸して激励しましたが、沖縄県には残念ながら行かれなかったのであります。機会があるならば、行きたいと、私は希望しております」と心のうちを率直に表明された。
沖縄復帰10周年を迎えた昭和57年9月の記者会見では「沖縄県と県民の幸福を願っており、よい機会があるよう希望しています」と復帰10周年の感想を述べられた。
「よい機会」とは沖縄訪問のことである。
昭和天皇のこうした沖縄への特に強い気持ちについて、元侍従次長の鈴木一氏は次のように忖度(そんたく)している。
「先の大戦で犠牲になった国民に対して陛下は、詫(わ)びたいというお気持ちがあるんですよ。これを言う人はいないんだけれど、陛下のお気持ちはそうだったんですね。
ですから、全国を回って、国民の一人ひとりに、戦争のことについては済まなかったとおっしゃりたいんです。
これを国民は察しなければいけないと思いますね」(元国連大使・中川融氏、文芸評論家・佐伯彰一氏との緊急追悼鼎談(ていだん)「激動の昭和と大行天皇」=「世界日報」平成元年1月10日付)
沖縄訪問の機会が最も近づいたのが、沖縄海邦国体が開催される昭和62年だった。海邦国体開会式出席による沖縄訪問である。この年4月の記者会見で、昭和天皇は「念願の沖縄訪問が実現することになりましたならば、戦没者の霊を慰め、長年県民が味わってきた労苦をねぎらいたいと思っています」と、その抱負を語られた。昭和天皇にとって沖縄訪問は、全国を巡り巡られた中で、最も訪れたくて行けなかった地に、ついに足跡を刻む、まさしくご巡幸の総仕上げだった。
しかし、訪れた最大の機会は、突然の発病で果たすことがかなわなくなった。沖縄へは皇太子時代の今上天皇が10月に訪問され、平和祈念堂では昭和天皇のお言葉を次のように代読された。
「さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を蒙り、一般住民を含む数多(あまた)の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の労苦を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。
ここに、改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の労苦を心からねぎらいたいと思います。終戦以来すでにでに42年の歳月を数え、今日この地で親しく沖縄の現状と県民の姿に接することを念願していましたが、思わぬ病のため今回沖縄訪問を断念しなければならなくなったことは、誠に残念でなりません。
健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したいと思います」
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遺志引き継がれた上皇陛下 平成5年、歴代初のご訪問果たす
昭和天皇は手術から1年後の昭和63年9月19日に大量吐血された。前年12月に公務に復帰された昭和天皇は、8月から体重減少や体力の衰え、断続的に発熱されるようになったことが気づかわれていた。昭和天皇の病状は「慢性すい炎」と診断され、大量出血と急激な発熱を繰り返されたが、闘病は強い心、持ち前の強い心肺機能と大量輸血などを柱とした侍医団の治療により年末までの幾度もの危機を、その都度乗り越えられてきた。
この間、昭和天皇の病状平癒を願う市民のお見舞い記帳は、皇居前や宮内庁京都事務所など全国12ヵ所の宮内庁施設をはじめ全国2000カ所にのぼった。その列は一日中、絶えることがなく、皇居坂下門での記帳だけで、大量吐血されてから24日目の10月13日までに100万人を突破した。全国の総計でも10月16日夜までに510万人を超えた。
この中には「天皇陛下のこと、夫も好きだったから」と亡夫の名前を書き並べた老婦人もいた。白髪の老人から子供連れの主婦、会社役員、会社員、自営業者、職人、学生そして外国人観光客まであらゆる階層の市民が筆先に願いを込めたのである。
こうした誰が言ったのでもなく、あっという間に広がった全国的な記帳の動きに最も驚いたのは、当の日本人自身ではなかったのかと思う。「かつての教育を受けていない若い人達が、静かに記帳の順番を待つ姿はすばらしい」「美しい日本人の心を見る思いだ」などと。
しかし、昭和天皇は年を越した七草の昭和64年1月7日に、沖縄訪問に強い思いを残されたまま崩御された。明治維新以後120余年の約半分を占めた昭和という激動の時代に幕が降りたのである。
最後まで沖縄訪問を念願とされた昭和天皇の遺志を引き継がれた今上天皇は、平成5年4月23日、植樹祭御出席のため歴代天皇として初めて沖縄の地を訪問された。すでに皇太子時代には昭和天皇の名代として沖縄を訪れておられたが、天皇としての訪問で親子2代してご巡幸を完成されたのである。

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昭和天皇の国葬「大喪の礼」は平成元年2月24日正午から、雨にぬれた東京・新宿御苑の特設葬場で喪主の今上天皇をはじめ皇族方、竹下首相、衆参両院議長、最高裁長官ら、さらに163カ国、欧州共同体(EU)と27国際機関の元首や特使など内外の9800人が参列して、古式ゆかしくしめやかに営まれた。皇居正門から新宿御苑までの葬列は乗用車、白バイなど61台、800㍍の車列となり、途中で「哀の極(かなしみのきわみ)の曲が演奏され、雨の中を57万人余の人々が沿道で見送った。
大喪の礼は規模が過去最大というだけでなく、参列した海外からの弔問代表で国家元首級がブッシュ米大統領、ベルギーのボードワン国王、デクエヤル国連事務総長など55人、王族・皇太子級が12人、副大統領級21人、首相級15人などの顔ぶれも空前のものとなった。
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今年(平成24年)3月11日午後2時46分。東日本大震災から、1年となるこの日は日本中が哀悼の祈りに包まれた鎮魂の日となった。
東京・国立劇場で、この日に行われた政府主催の追悼式典には、前月に心臓手術を受けられたばかりで療養中の今上天皇が出席されおことばを述べられた。おことばは「国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善していくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています」「大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心がけを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切」などと心のこもったものであった。
今上天皇・皇后両陛下は震災後、福島、宮城、岩手県の被災地などを訪問された。避難所では両ひざをついて一人ひとりにお声をかけて労(いた)わられた。そして、皇居・御所では被災した人々と辛苦をともにしようと、一日数時間の「自主停電」の生活を続けられた。そうしたお心遣いが、失意の中に忍耐する被災者達をどれほど励まし、心の支えとなってきたことか。
また、震災5日後にはビデオメッセージで、被災者へのお見舞いと激励の意を伝え、一般国民にも被災地への支援や協力などを願うおことばを発せられた。
今上天皇のこれらから、国民と苦楽をともにしてこられた昭和天皇と、その戦後ご巡幸や終戦の決断を国民に直接語られた玉音放送を思い浮かべた人も少なくないであろう。今上天皇は「昭和天皇のことはいつも深く念頭に置き、私も『このような時には昭和天皇はどう考えていらっしゃっただろうか』ということを考えながら、天皇の務めを果たしております」(平成10年の誕生日にあたっての記者会見)と述べておられる。
ご巡幸と沖縄への特別な深いお気持ちに示された昭和天皇の御心は、今も天皇家の伝統の中に受け継がれているのである。
世界日報 編集局次長
堀本 和博
(平成24〈2012〉年発行「昭和天皇巡幸」復刊版より)
7月から電子版で第4月曜日に掲載します。






