
一枚の紙きれが山内アヤ子さん(当時28歳)の運命を変える。
昭和21年8月、夫正典氏の戦死の公報が宮崎県の串間北方町の家に届く。今でも大切に保存しているその紙は黄ばみ、文字も薄れて消えかかっている。ただ、墨で書かれた「山内正典」の字だけは鮮やかに読める。公報によると、戦死したのは昭和19年7月6日、場所はマリアナ諸島。乗っていた船と運命をともにしたらしい。
――そうか、あれは戦死の知らせだったのか。今にして思い当たる夢をアヤ子さんは2度ばかり見ている。自分の家の前を兵隊が水に濡れたまま通っていく。夫が玄関の前で何か言いたげに立っている。全身がずぶ濡れのままだ。そこで目がさめた。
ふと「船に乗っているときに、やられたのじゃないか」と不吉な予感がした。が、強いてその思いを振り払う。おなかのなかには3人目の子供を身ごもっていた。

正典氏は召集前は、宮崎県で警察官を拝命していた。警察官の妻として何不自由ない生活を送る。二度と戻らぬ出征となった2度目の召集は、19年5月24日。このとき、正典氏は何か感ずることがあったのか、「日本は負けるかもしれない」とつぶやく。そして、熱心に短刀の柄に文字を彫った。「一心」の2文字。敵が上陸したら、警察官の妻として恥じない死を――それが文字に込めた意味だった。アヤ子さんはふるえる思いで押し頂く。
終戦になっても、どこかで夫が生きているのではないか、と一縷(いちる)の望みをつないで生きてきた。しかし、その思いも一枚の公報によってむなしくなってしまった。
串間の役場で遺骨を受け取る。箱のなかにはカマボコ板が1枚。「山内正典」と書いてあった。
夫の戦死を知ってからアヤ子さんは強度のノイローゼに襲われる。ある日、橋の上に佇(たたず)みながら、下の川を見て夫を思った。海のなかで待っているのではないだろうか。3人の子供とともに「父ちゃんの所へ行こう」、そう思った。
≪そのとき、橋を通りかかった人が止めてくれなかったら、おそらく死んでいました。その人がだれだったのか、今ではわかりませんけれど、叱ってくれた言葉が身にしみました。「勝って死ぬならまだしも、負けた戦争で死ぬのは犬死にだ」と。それで目がさめました≫
――戦争には負けたが、これからは負けるものか、アヤ子さんは生きるための戦いを始める。「まだ若いんだから。子供はおばあちゃんがみるから」と義母に再婚をすすめられたが、「いや子供だけは離しません」と、キッパリ断る。「だれにも、絶対人に世話にならない」の思いで生まれ故郷の都城市に戻り、市役所に母子寮の申し込みをする。「若いんだから結婚しないか」と市役所でも尋ねられたが、その意思がないと知ってようやく許可された。
その母子寮の名は「民生館」、バラック建ての貧弱な家屋だった。一家4人を養うために、物売りを始める。トビウオを売りに毎日遠くの村々まで歩いた。その当時胸をつかれたのは、物売りから帰ると、子供たちが所在なげに壁に背を押しつけて待っていた姿だという。
昭和24年6月4日、前日まで降り続いた雨がやっと上がり、初夏の陽光があふれた好天となった。この日、天皇陛下をお迎えする民生館の軒先には、子供たちの作ったテルテル坊主がぶら下がっていた。祈りが通じたと子供たちは喜んだ。天皇陛下は有田市長のご先導で砂を敷きつめた道を歩まれた。都城ろう学校の生徒138人が陛下をお待ちしていた。
「ろう学校138人の生徒でございます」
「ああそう」と陛下はおうなずきになった。
「元気を出してね」
母子寮の入り口に机が置かれ、白百合の花が飾られていた。
「本館は市営でありまして、館内に母子寮、保育所、養老院、授産場があります」と有田市長が奏上。その後、陛下は部屋を一つずつ見て回られた。やがて山内アヤ子さんの部屋に陛下がお立ちになった。陛下は玄関を入られると、おじぎをされた。
「苦しかったでしょうね」
アヤ子さんは、「もったいない」と思わず頭が下がった。お顔を拝することもできず、「ありがとうございます」そう言うのがやっとだった。
陛下は子供たちにお目を留められた。
「お母さんの言うことをよく聞いてください」
「はーい」と子供たち。陛下はニッコリ笑われた。
≪ありがたいと思いました。緊張で硬くなっていましたが、やさしいお言葉を聞いて心が休まるのを感じました≫
6月6日、宮崎県立盲学校では陛下と生徒の心温まる出会いが期せずして演じられた。陛下が、小学部2年生の教室に入られると、盲人用の2センチ尺と三角定規で授業をしていた高橋恵子先生が、
「みなさん天皇陛下が、ただ今おいでになりましたよ」と知らせた。
「いらっしゃいませ」生徒たちはあいさつした。一番手前の席にいた村社マツ子さん(当時10歳)に先生が、「マツ子さん、天皇陛下がどこにいらっしゃるかわかりますか」と優しく尋ねた。
「どこです、どこです。陛下はどこです」マツ子さんが思わず手を差し伸べると、その手が陛下のお手に触れた。陛下は黙ったまま、マツ子さんを見つめている。そのお眼が心なしかうるみがちに2、3度まばたく。
「わかったでしょう」高橋先生も涙ぐんでマツ子さんの肩を抱くようにして着席させた。だれもが声もなくこの光景を見ていた。
今、村社マツ子さんは、宮崎市潮見町でマッサージ師をしている。
【ご巡幸メモ】
お召し列車が都城駅に到着する前に、一人の老婆がお召し自動車の車体に触れる光景が見られた。「車体に顔をすりよせて拝む。人間としての天皇…この天皇の変遷もこの老婆には理解できぬことかもしれない」「この老婆は北諸縣郡中郷村安久向井セイさんで長い時間にたえきれず、せめて自動車の御紋章でもと菊花の御紋章を何回も何回もなでさすり、〝これでメイドヘのよいお土産が出来ました〟と声をふるわせて人波に消えて行った」(『日向日日新聞』昭和24年6月5日付から)






