トップ社会鹿児島の戦災孤児施設 陛下になつく子供たち ~鹿児島編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

鹿児島の戦災孤児施設 陛下になつく子供たち ~鹿児島編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
昭和天皇が眺めたであろう桜島の風景(鹿児島県)
昭和天皇が眺めたであろう桜島の風景(鹿児島県)

 孫文研究家、車田譲治氏の脳裏には今でも焼きついて離れない光景が二つある。

 一つは天皇陛下とマッカーサー占領軍事総司令官が並んで立っている昭和20年9月の写真。そして、もう一つは昭和24年、天皇陛下の鹿児島ご巡幸を迎えたときの旧制中学(鹿児島県立第二鹿児島中学校)の級友たちの反応である。

 そのどちらも日本が負けたという実感を強烈に感じさせた出来事だという。天皇陛下の写真は、当時御真影といわれて、天長説などの国家的行事のときに学校で拝礼していたが、直視してはならず、天皇陛下を写真を通じても拝する機会はほとんどなかった。それが、マッカーサーと並んで写真に写されて新聞に出ているのだから、驚くのも無理はなかった。

鹿児島県の地図

 そして戦後の鹿児島ご巡幸をお迎えするときに、予科練や軍隊からの復員者もまじって、参加するかどうかで討論や話し合いがくり返され、なかには無視すると言う者まで出た。これも戦前戦中では考えられないことだった。「陛下がみえるのだから、お迎えすべきだ」という常識的な意見に対して、一方では「オレはいやだ」という反応も強かった。

 《いやだという人間には、軍隊から帰って来た人が多かった。彼らの言い分は「天皇陛下のために志願し戦場へ行ったのに、負けたら手のひらを返すように軍国主義の申し子と冷たい目で世間は見る。志願させた教師までが軍国主義者という目で見るのだから……。その教師が天皇が来るからお迎えせよと言う。こんなむちゃくちゃなことがあるか」というものだった》

 なかには「いっぺんも見たこともないから、どういうお方か見てみたい」と話す級友や、「お迎えすることは民主主義、デモクラシーに反する」などと、民主主義が何たるかを知らずに反対する者もいた。

 《今から考えると、反対も本当につきつめた上でのご巡幸反対じゃないのですね。個人的な体験から出た意識じゃないかと思う。共産党に入って、天皇は「民衆の敵」とまで言っていた人が、ちゃんとお迎えしていたりしましたから》

 そんな戦後の混乱が尾を引いていたときに、天皇陛下のご巡幸が挙行されたわけである。陛下は、ただひたすら新日本建設のために身を粉にして、身をお休めになるいとまもなく強行スケジュールのなか、ご巡幸を続けられた。奉迎者にこたえられるために、自動車などから帽子を振られる回数が、1日5千回に及んだ日もあるという。

 昭和24年6月1日、天皇陛下は熊本県から鹿児島県へ入られた。九州ご巡幸の14日目のことである。6月3日、雨のなか、陛下は鴨池の鹿児島市奉迎場に到着された。道はドロンコとなり、あちこちに水たまりが出来ていた。戦災者、引き揚げ者などにお言葉をかけられているうちに、お靴も泥まみれになった。

 壇上に陛下がお立ちになると、君が代の大合唱が起こり、続いて雨空を突き抜けるようなバンザイの連呼。陛下もグッと握りしめられた帽子を何度も打ち振られた。そのお姿を涙でにじんだ数万の瞳がピッタリと見つめていた。お立ち台からお降りになって、お召し車に向かわれたときだった。日本の振りそで姿の7、8歳ぐらいのアメリカ人少女が陛下に花束を捧げた。 

 陛下はニッコリ笑われてお受けとりになった。

 「ハウ、ドゥ、ユゥ、ドゥ」と少女。陛下は笑われて、「おお、かわいい……ありがとうね」と答えられ、少女の手をとられて何度も握手をかわされた。よほどお喜びになったらしく、お持ちになった帽子をとり落とされた。

 この少女は進駐軍のスミス夫人の娘ルーズさん(当時7歳)。母親のスミス夫人も感激しながら語った。「私の目にうつった陛下は何ものにも熱心に研究的で、しかもおやさしい方でした。この子の祖母も陛下にお会いする機会があったらと念願しておりましたし、この振りそで姿で陛下に花を差し上げる写真を国の祖母がみたらどんなに喜ぶでしょう」

 そのルーズさんも、今は43歳。アメリカのどこかで一家の母として生きているに違いない。陛下とともに写った写真を壁に掲げているかもしれない――。

 ルーズさんとの心温まる出会いの後、陛下は戦災孤児収容施設「仁風寮」へ向かわれた。「仁風寮」に到着されたのが午前10時35分。鹿児島郡にあった寮は現在、そこにない。

 「仁風寮」関係者、今和泉輝義氏(72)を鹿児島市に訪ねたとき、上空は桜島から噴き上げられた火山灰で暗く覆われていた。

 《ドロだらけの田舎道でした。雨の降るなか砂利をまいてお迎えしたことを覚えています》

 当時の新聞(『南日本新聞』)には、陛下が大変おくつろぎになり、赤ちゃんには身をかがめられて「アワワ」とおあやしになった様子が描かれている。

 《今でも忘れられないのは、陛下をお見送りするときのことです。陛下がお車に乗られようとされたとき、それまでおとなしく並んでいた子どもたちが、とび出してきて陛下をとりまいたんです。陛下はニッコリ笑われながら、子どもたちの頭をなでられました。そうすると、子どもたちは、「ぼくも、ぼくも」と言うんです。陛下は「よしよし」とおうなずきになり、しまいには、両手で子どもたちの頭をなでてくださいました》

 戦後日本の復興にアメリカからの物資の援助は大きな力があった。飢えに苦しんでいた国民にとってそれは文字通りの助けになった。そして、その援助――ララ(アジア救済連盟の略称)物資はこの鹿児島の地へも及んでいた。ララ物資が「仁風寮」に贈られて来たときは「本当にうれしかった」と今和泉氏は話す。

 今和泉氏は、現在鹿児島湾に近い高台で保育園を経営している。「仁風寮」でふれあった子どもたちの姿が忘れられないからです、と静かに語った。

【ご巡行メモ】

 鹿児島ご巡幸の2日目、加治木高校の奉迎場で愛児の遺影を抱いた一人の婦人の姿が人目をひいた。その婦人、古賀てるさん(42)は戦災で亡くした愛児健蔵くんの写真が陛下のお目に止まればという気持ちでいたところ、思いがけず陛下からお言葉をかけられた。陛下は涙ぐまれて、「それはほんとうに気の毒でしたね。日本再建のためにしっかりやってくださいね」と言われた。そのとき、わが子の戦災死にも泣かなかったてるさんは思いがけないお言葉に、ついにワッと泣き伏した。付近の遺族席も一瞬にしておえつが広がったという。

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