
この島の山を天皇こえにけり山より海を見放(さ)けたまひき
熊本県天草の本渡市にある諏訪神社の境内にこの歌碑が建っている。昭和46年、天皇陛下の古稀を記念して歌人の橋本徳寿氏の歌を彫ったものである。
碑銘には次のようにそのいきさつがしるされている。
「天皇陛下には、失意の底にあった戦後の国民を慰め、はげまさんと、全国各地を御巡幸あらせられ、離島の天草にも昭和二十四年五月三十日、本渡大矢崎港に御上陸、難路の福連木峠をこえて下田に御宿泊。翌日、富岡小学校、次いで当市の天草高等学校校庭に於て、島民の熱狂的な御奉迎に親しく御会釈をたまい、再び大矢崎より八代へ向わせられる。

その翌月来島した歌壇の重鎮、橋本徳寿先生感懐の歌をここにきざみ、かの日の感激を永く後世に伝えんとす」
天草は島という印象が強いが、一歩なかに入ると、山また山の風景が続き、長野県あたりの印象と重なる。しかも、つづれ折りともいうべき名うての難路であり、舗装された現在でも車の運転には困難をきわめる。この難路は、昭和24年当時はむろんまだ舗装されておらず、埃が舞うデコボコ道を天皇陛下のお車が通られたのである。その感懐が、橋本徳寿氏の歌となって結実したものだ。
橋本徳寿氏の歌碑はもう一つ「天皇陛下巡幸記念碑」の副碑として50年に建立されている。
赤崎沖にすれちがひつつ船上より天皇がさきに帽振られたり
これは陛下が天草ご巡幸の折、赤崎沖で天皇陛下の乗られた船とすれ違ったときのことを歌ったものである。
天草には天皇陛下のご巡幸を記念した碑が、各地に建てられている。その一つ一つが、ご巡幸を迎えた島民の感激の深さを物語っている。その風光明媚な天草の地に天皇陛下が初めて上陸されたのが、昭和24年5月30日。三角湾から船で本渡大矢崎港へ渡られたのだった。
そのときの様子を入江相政侍従(当時)が「あをきうしほ」と題する随筆のなかで述べている。
「雲仙が、すばらしい姿でそそり立っている。無数の紋白蝶が、陸のほうから海に向けて飛んでくる。風に乗ってしまって、流されて、心にもなく飛んでいるにちがいない。こんなに海の遠くに出て、末はどうなるものか。『久しぶりの船で、いい気持だ』とおっしゃった。考えてみれば、戦後はもとより、戦前も、外海で船に召したのは、昭和11年の、北海道行幸以来のこと、15年ぶりのお船」
本渡から、天皇陛下はお車で下田へと向かわれた。途中、本村の開拓地では、開拓団員五、六十人が路傍に立ってお迎えする姿が見られた。そのだれもが顔は日に焼け、服は色あせて、日ごろの苦闘ぶりをしのばせていた。お車は、山路を五、六十癖通りすぎてから止まり、引き返して来た。ご予定にはない行動だった。
陛下は車から降りられて開拓団員を励まされた。
「開拓事業は困難な仕事だが、食糧増産のためがんばってください」
開拓団員ら一同は感激してものも言えなかった。この年初めて、入植してから麦の収穫があった。その感激で、一同供出への決意を新たにしたという。
当時の本村開拓団長岡村亘氏は、陛下がお車から降りられたとき少しよろけられたので、「お疲れのようだ」と胸を痛めた。そのお姿は終世忘れることがないという。
《当時の開拓地はほとんどが地形、水利、気温、交通等の悪条件のため、放置された自然木の山林、原野でした。原住の人びとからさえかえりみられぬ土地へ、全くの素人の外地引き揚げ者や復員軍人たちが入植し、困難を克服して農地を造成することの厳しさは想像以上のものがありました。せっかく入植しても、ついにこの苦痛にたえかねて、夜逃げ同然の姿で離農する人も多かったものです》
岡村氏も初めて握るオノ、鍬に手は豆だらけになり、足はいばらで血をにじませて働く。配給されたわずかな食糧を家族でわけあい、空腹に耐えながら、一家総出で開拓に励んだが、失望のあまり、「ときには天を仰ぎ世の無情に何度か涙した」ことも――。
そんなときに天皇陛下のご巡幸をお迎えし、お言葉をいただいたのである。
《直接、陛下からご激励のお言葉を拝したことは、どれだけ多くの励ましと、明日への希望を奮い立たせたことだったでしょう》
本渡諏訪神社の宮司である大野俊康氏(63)は、奉迎場の天草高等学校でお迎えしたあのときの印象を熱っぽく語る。
《本当に島を上げて陛下をお迎えいたしました。一番先頭にいましたが、「がんばってくれ」という声なき声を感じました。全員が一体となって君が代を歌い、本当に日本人に生まれてよかったと思いました。お迎えした日本人の一人ひとりがそう思ったのではないでしょうか。それが日本の復興に繋がったという気がします》
大野宮司は、天皇陛下御即位50年奉祝の昭和51年、天皇ご巡幸を記念して『天皇陛下天草巡幸記念誌』を出版した。そして今、60年奉祝を記念して決定版『天皇陛下と天草島』を年内に出版すべく準備に忙しい。
天草から帰る途次、赤崎沖で天皇陛下は鯛網漁をご覧になった。その辺の浜は「御幸ケ浜」と呼ばれ、巡幸碑が建てられている。その碑の一つに、入江前侍従長の歌が刻まれている。
大君はあをきうしほにはねをどる天草の鯛をすくひましにき
【ご巡行メモ】
歌人の斎藤茂吉は天皇陛下の御製について次のように書いている。「清純とか、おほどかとか、平明とかいふやうな抽象的な言葉をを以て表現される、ある匂ひがあるのではあるまいか」。熊本県では、陛下は三首の御製を読まれた。「かくのごと荒野が原に鋤を取る引揚びとをわれはわすれじ」「外国につらさしのびて帰りこし人をむかへむまごころをもて」「国民とともにこころをいためつつ帰りこぬ人をただ待ちに待つ」






