トップ社会陛下のお姿は「巡礼」 「長崎の鐘」は鎮魂の歌 ~長崎編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

陛下のお姿は「巡礼」 「長崎の鐘」は鎮魂の歌 ~長崎編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
諫早市小長井地区から対岸の雲仙普賢岳を見る
諫早市小長井地区から対岸の雲仙普賢岳を見る

 〽こよなく晴れた青空を
  悲しと思うせつなさよ

 「長崎の鐘」(作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而)に歌われているように長崎はキリスト教会が多く、異国情緒あふれた街である。40年前にこの街の上空で原子爆弾が爆発し、約7万人の人びとの命を奪い、周りを焼きつくした面影は今ほとんど見られない。原爆で倒壊した浦上天主堂も、昭和34年に再建された。今では観光客のよく訪れる名所の一つになっている。

 近くの公園には500本の桜の木が植えられていて、毎年4月ごろに一斉に花が咲き乱れる。

 「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」「この子を残して」の著者で科学者でもある永井隆博士が、原爆症と闘いながら、著作活動に励んだ「如己(にょこ)堂」は、浦上天主堂からほど近い所にある。

 如己堂という名は、「己の如く隣人を愛する」という博士の座右銘にちなんでつけられた。被爆者の治療に献身していた博士が、骨髄性白血病で倒れた後に、愛児とともに住んでいた所である。夫人は原爆で既に亡くなっていた。その永井博士が、原子爆弾の爆発直後の状況を生々しく描いている。

 「日が暮れた。冷たい新月が稲佐山の上低く光った。瓦斯雲は依然空にあり、都会断末魔の焔をうけて妖しく輝いた。風は静って来た。谷間から「海ゆかば』の合唱が起り、草の中から讃美歌の合唱が続き、命絶えようとする人々の心を潔めた。山の上の患者が声を揃えて『担架隊来て下さい』と呼ぶ。隣に寝ている患者が『水を水を』と求める。気味悪く低空を横切る敵機の下に生き残った者と死人とは相並んでその儘(まま)野宿したのである」

 昭和24年5月27日、天皇陛下は長崎市に入られた。3年9カ月前の被爆の跡がまだ生々しい。遠く見える浦上天主堂も破壊の跡をとどめ、左手には工場跡にアメのように曲がった赤さびた鉄柱がつっ立っている。当時は「70年間は草木も生えない」と言われたほどである。

 小雨が降りはじめていた。君が代の合唱と旗の波が陛下をお迎えした。陛下は奉迎場の浦上球場で、広島に次ぐ異例のお言葉を直接人びとに語られた。

 「長崎市民諸君、本日は長崎市復興の状況を見聞し、また、市民の元気な姿に接することが出来てうれしく思います。長崎市民が受けた犠牲は同情にたえないが、われわれはこれを平和日本建設の礎として、世界の平和と文明のために努力しなければならないと思います」

 水を打ったように静まり返った場内が、お言葉が終わると同時に「万歳」の叫びとなって渦巻いた。小雨にけぶる場内では、陛下の帽子をうち振るお姿が万歳の嵐につつまれた。

 この日、永井博士は、如己堂から担架で長崎大医学部付属病院2階の内科病棟廊下に運ばれた。

 陛下のご巡幸をお待ちするためである。

 永井博士は、長男誠一くん(14)と長女茅乃さん(9)に、「陛下がお見えになったら、にっこり笑うんだよ」と語りかけた。

 陛下は永井博士に目をとめられると、「どうです、ご病気は?」と優しく問いかけられた。

 「ありがとうございます。ずっと元気でございます」

 「早く回復してください」「あなたの書物は読みました」と陛下。さらに、誠一くんと茅乃さんを「しっかり勉強して立派な人になってください」と励まされた。

 現在、誠一氏は、マスコミ関係に勤め、茅乃さんも結婚して幸福に暮らしているという。

 後に、永井博士はこのときの印象を「天皇陛下にお会いして」と題した手記で述べている。「陛下は著書も読んでゐますよ、十分病気を養生して、早くよくなりなさいよと話しかけられたが、その仰言てくださるそのお言葉だけでなく、全身の表情から私は、いつも顔つき合せてゐる隣人のような、親しいものを胸に感じた。私はあの細やかな心遣いをして、どんな小さなものでも、いたわられる愛情と御態度こそ、今の私たち日本人が、毎日の生活にまねをしなくてはならないと思う。今日本人はお互ひに分離してゐるが、陛下がお歩きになると、そのあとに萬葉の古い時代にあった、なごやかな愛情の一致が、甦って日本人が再び結びつく」

 永井博士は、さらに歌も詠んでいる。

 天皇は神にまさねば私に病いやせとじかにのたまふ

 原子野に花咲き来るうるはしさ見る天皇は安けきたまふ

 昭和26年5月1日、永井博士はカトリックの信者としてその生涯を終えた。

 「われは無益のしもべなり、なすべきことをなしたるのみ」。

 名作「長崎の鐘」の歌は、実はこの永井博士を歌ったものである。詩人のサトウハチローが日ごろ敬愛していた博士のために書いた絶唱ともいうべきものだった。それで、永井博士の死を聞いたとき、サトウハチローはがっくりときて、それ以来、歌謡曲の作詞の筆を折った。文字通り、「長崎の鐘」は永井博士への鎮魂の歌であり、2人の友情のあかしなのである。

 永井博士が残した言葉のなかに次のようなものがある。

 《天皇陛下は巡礼ですね。形に洋服をお召しになっていましても大勢のおともがいても、陛下のお心は、わらじばきの巡礼、一人寂しいお姿の巡礼だと思いました》

 天皇陛下が、全国ご巡幸にのぞまれたご心情の一端をこの言葉は解き明かしているといえないだろうか。

【ご巡幸メモ】

 天皇陛下は九州ご巡幸の出発前、打ち合わせのためご巡幸先現地に向かう入江侍従(当時)に対して次のような注意をされた。「この打ち合わせに出発する時、陛下に『何かうかがっておくことでも』と申し上げたら、『戦後まだ日も浅く、みんな生活にこまっている。私はそれをなぐさめ、はげましにいくのが目的なんだから、私の旅のために、むだな費えがあるようでは意味がない。くれぐれもそういうことのないように、よくたのんできてくれ』とおっしゃった」(入江相政著『天皇さまの還暦』)

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