トップ社会長崎・「聖母の騎士園」 園児や職員と近く交わる ~長崎編1~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

長崎・「聖母の騎士園」 園児や職員と近く交わる ~長崎編1~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
再建された現在の浦上天主堂(奥)と原爆によって破壊された鐘楼
再建された現在の浦上天主堂(奥)と原爆によって破壊された鐘楼

昭和24年5月24~27日

 《陛下がみえられたのは私たちにとって光栄であり、励まされました。感謝いたしました》

 アントニオ・ミロハナ神父(76)は、この8月で55年の長きにわたる滞日生活となる。現法王ヨハネ・パウロ2世と同じポーランドのクラクフ出身。今では、日本人以上の日本人として、異国の土となる日を覚悟する。

 《日本に来たのは、コルベ神父さまが動機。コルベ神父さまが出されていた雑誌『聖母の騎士』を読んで、その方にひかれたのです。一緒に生活したいと思いました》

 コルベ神父とは、マキシミリアノ・マリア・コルベ――アウシュビッツにあるナチ強制収容所で、死刑を宣告された10人のうちの1人の身代わりを志願し、餓死刑を受けた人。最後までコルベ神父は決して神が見捨てたまわないことを同室の者に訴え、ともに祈り賛美歌を歌って励ました。2週間たっても、コルベ神父は生きていた。――ついに監禁生活の15日目、ナチはフェノールを満たした注射針を神父の腕に刺して殺害した。現在、聖人の位を授けられている。

 そのコルベ神父が、日本の「聖母の騎士」の創設者である。昭和5年、36歳のとき、ヒラリーとゼノの2人の修道士を連れて長崎に上陸。その後まもなく、ミロハナ神父も来日する。以来55年が経過している。ミロハナ神父は文字通り、半世紀を「聖母の騎士」とともに生きてきたわけである。

 昭和20年8月6日、広島に原子爆弾がB29によって投下された。死者および行方不明者約20万人にも及ぶ。そして、8月9日、第2弾が長崎上空から投下された。落下傘に吊るされた原子爆弾は、11時2分、浦上の上空約490メートルで爆発し、熱線・放射能・爆風で、浦上を中心に半径1キロ圏内の家屋は全壊・全焼した。

 死者7万3884人、重軽傷者7万4904人、罹災者12万820人、罹災戸数1万8409戸(市内総戸数の約36%)――『長崎市勢要覧』

 原子爆弾が投下されたとき、ミロハナ神父は、長崎市内の「聖母の騎士」教会にいた。が、幸運にも浦上とは山を隔てていたため、教会の方へ直接的被害はほとんどなかった。

 《原子爆弾が普通の爆弾と違うのは音がないこと。青空には雲もなかった。光がまばゆくて、地震みたいに全部ゆれた。爆弾が落ちたら、土に伏すように言われたので、身を伏せた。ところが、音が出るのを待っていても何もなかったのです》

 不思議に思って、外に出たら神学生が「神父さん、広島と同じ新型爆弾です」と叫んだ。神学生のなかには、浦上に親戚や家族のいる者がいたが、ミロハナ神父はすぐ助けに行くのは止めた。

 「行っていたら、死んでいたでしょう」

 その後、教会には原爆の被害者が続々と送られて来た。その人たちは、次々とミロハナ神父の目の前で死んでいった。ミロハナ神父は、死にかかっている人をまわって、慰め、お祈りをしつづけた。ほかに何もする術(すべ)がなかった。孤児たちも、たくさん集まって来た。

 その子供たちを見て、聖書にあるキリストの言葉――この子供たちに成したことは、私に成したことなのである――を思い出した。それが、孤児院「聖母の騎士園」の出発となった。

 現在、「聖母の騎士園」は北高来郡小長井町に位置するが、天皇陛下のご巡幸当時は、大村湾を望む海辺にあった。

 昭和24年5月25日、天皇陛下は「大村聖母の騎士園」を訪ねられた。正門前では、園児たちが日の丸の旗を小さく激しく振ってお迎えした。陛下はニッコリ笑われて、バラで飾られたアーチをくぐり、ミロハナ神父の先導で騎士園に入られた。

 376人の園児、神父、修道士、職員らが陛下をお迎えして「君が代」を斉唱した。

 《私たち、陛下を歓迎しました。子供が集まって、歌を歌ってお迎えしたら、ニコニコ笑い、握手のため手を差し出してくださいました》

 遊戯室では、園児たちの「奉迎の歌」の合唱に、いくぶんお体を振って拍子をとられた。

 次に、園児代表の上野芳宣くん(13)が、「立派な日本国民になります」と奉迎の言葉を述べた。陛下はいちいちおうなずきになられた。

 「お言葉ありがとう。イエスのお言葉に従って立派な人になってくださることを希望しますよ」と陛下は激励された。

 《私たちは本当にうれしかった。職員も陛下に近くまじわることが出来て、とてもうれしそうでした》

 孤児院「聖母の騎士園」のある小長井町は、諌早駅から約24キロ離れた所、大村湾をはるかに見下ろす山の上にある。その「聖母の騎士園」から少し上ると、ミロハナ神父の住む「みさかえの園」がある。

 「みさかえの園」は、昭和24年に創立された聖母の騎士修道女会が中心になって運営されている、重い心身障害児などのための総合福祉施設である。そこには、精神薄弱児施設、重症心身障害児施設、精神薄弱者厚生施設などがひしめいていて、一つの町のような印象を与える。小高い山の上に切り開かれた「みさかえの園」は、そのまま日本に骨を埋めるためにやって来た、異国の聖母の騎士たちの祈りと苦闘の歴史を感じさせる。

 《神様がいらっしゃらなかったら、そういう事業はしないでしょう。日本にも来なかったでしょうね》

 ミロハナ神父は、最終バスが出発するまで記者を見送ってくれた。窓ガラス越しに見える神父は夜風にさらされながら、いつまでも佇(たたず)んでいた。

【ご巡幸メモ】

 『長崎日日新聞』5月27日付に、ご巡幸の先々どこにでも影のごとく添う老人のことが紹介されている。「日の丸片手に〝皆さん御唱和を願います″と力一ぱいのしわがれ声をはり上げて君が代をうたい出した」「このぢいさんこそは終戦以来陛下のお出ましにはかかさず影のごとく茨城でも、岐阜でも、愛知でも御送迎申し上げているという熱情の人、村松健治さん」「私は陛下とともにあるときが一番幸福です」と語って人波をかきわけて、姿を消したという。

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