
死者・行方不明者ら2万人を超える犠牲者を出した東日本大震災。当時、被災した人々の命を救うため、多くの医療関係者が奔走した。日本赤十字社は2011年3月11日の発災から約6カ月の間に救護班が935班(延べ6667人)、翌年3月までに延べ17万9500人以上のボランティアが活動した。
しかし、震災から15年が経過し、全国で働く医師や看護師、事務職などの職員約6万6800人のうち、多くは震災後の入社となり、当時を知る職員は4割にまで減少した。
記憶風化の対策として、主に若手職員を対象に被災地で救護活動を行った医師やボランティアの体験談を伝える講演会が3日、東京都港区の日本赤十字社本社で開かれた。
当時、石巻赤十字病院で外科医として勤務していた医療推進本部参事監の植田信策さん(62)は、肺がん患者の手術を始めようとした直前に地震が発生。手術器具などを置いたキャスター付の台が動かないよう抑えるのに必死だった。
震災による院内の人的被害はなく、設備の被害も最小限だったため、植田さんは病院に運び込まれてくる患者に対応。発災から1週間で3900人以上が搬送され、「野戦病院状態」になった。病院職員の多くも自宅が被災し、20人に1人が2親等以内の家族を失った。家族の遺体発見の報告を受けた職員が「その場で崩れ落ちる姿もよく見た」という。
それでも多くの職員は責任感から職場を離れることができなかった。植田さんも妻としばらく連絡が取れなかった。
福島県の原子力災害下で救護活動に携わった同県支部事業推進課長の久保芳宏さんは、福島第1原子力発電所の水素爆発を機に、安全確保のため医療活動していた救護班が引き揚げることになった当時を振り返った。住民から「『どうせ見捨てていくんでしょ』『俺を置いて逃げるのか』という声もあったと聞く。最終的に原発事故での避難指示の出なかった地域からも、救護班は移動してしまった」。混乱の中で命を救えなかった事例もあり、話しながら涙で言葉を詰まらせる場面もあった。
放射線の知識や器材の欠如など、原子力災害に対する準備が不足していた反省を踏まえ、現在ではマニュアルの整備や研修会も行われるようになった。
宮城県支部の防災ボランティアの安倍志摩子さん(64)は、夫と共に津波に巻き込まれながらも生還。避難所になった小学校で、治療の必要な人をリストアップするなど、避難者の健康問題に取り組んだ。
避難生活中の心構えとして「私のようなボランティアは『やってあげたい』と思いがちだが、やってあげるばかりでは相手も依存してしまうし、不平不満も出てきてしまう。一人でやり過ぎれば負担が重なるので、じっくり休むことも必要だ」と指摘。避難所生活の中で、同校の校長が掃除をする姿を見て、子供たちが手伝うようになると大人たちも避難所の清掃を行うようになった例を挙げ、「一週間経(た)つといら立っていた人たちも、だんだんと温かい気持ちになってきた。『してもらう』のではなく主体は自分たちだと、被災者自身に思ってもらうことが大事」と訴えた。
講演を聞いた入社3年目で財政部の駒野早紀さん(25)は「私自身は医師ではないので直接人を救うことはできないが、自分にできることは精いっぱいやりたい」と感想を述べた。さらに「私は物品調達の仕事を担当しているが、もし災害が起きれば後方支援の可能性が高い。できるだけ早く被災者に救援物資を届けられるよう、できることを迅速にやっていきたい」と有事の際の抱負を語った。
(東日本大震災15年取材班)







