トップ社会引き揚げ孤児寮ご訪問 陛下の服をつかんでどこまでも~佐賀県編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

引き揚げ孤児寮ご訪問 陛下の服をつかんでどこまでも~佐賀県編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
基山山頂展望台からの街の風景(佐賀県基山町)
基山山頂展望台からの街の風景(佐賀県基山町)

佐賀 昭和24年5月22日~24日

 みほとけの教守りてすくすくと生ひ育つべき子らにさちあれ

 今上陛下の御製に歌われた孤児寮の因通寺「洗心寮」は、佐賀県三養基郡基山町に位置する。天皇陛下がご巡幸された昭和24年には、39人の孤児が収容されていた。その多くが中国、フィリピンで親を亡くして引き揚げて来た子供だった。

 因通寺の住職、調(しらべ)寛雅氏(当時25歳)は、戦地からの引き揚げ者である。その途次、孤児たちの悲惨な状況をつぶさに見、先代住職の龍叡氏に報告。盲目の僧として知られていた龍叡氏は「今しなければならないのはそれだ」と孤児寮を開く決意を固めたのであった。

 「全財産、全生命をなげうっていいか」「俺もやるからお前もやってくれ」。龍叡氏は寛雅氏に決意を述べた。そして、仏教の「捨身布施」の精神で、昭和20年10月、戦災孤児2人を収容して「洗心寮」がスタートした。とはいえ、当時の食糧難には全財産を投じても追いつかないほど食糧事情は悪化していた。

 ある日、唐津まで塩の買い出しに出かけ、佐賀駅で経済警察に捕まり、取り調べを受ける。しかし寛雅氏が、孤児たちの窮状を訴えると、係官は「そういうことだったら何も言いません」と釈放、見送ってくれたという。

 また、夜を徹して村の婦人会を子供たちと回り、盃一杯ずつ米を恵んでもらったりもした。

 ある日の食事では、うどん粉7、よもぎ3の割合の雑炊が出た。孤児の一人が「先生、このどんぶりにぼくの顔うつりよる」と素頓狂な声を出す。それほど水っぽかった。

 そんな子供たちを見て、龍叡氏は、それまで1日2回だった食事を1回に減らした。

 「この老耄(もう)の身が生き延びたとして何年生きるやら。それよりもあの子供たちが腹をすかしているのをみると、何か役に立たなければならない」

 昭和22年、無理がたたり龍叡氏は病没。その衣鉢を継ぎ、寛雅氏が洗心寮を運営する。

 ご巡幸は24年5月22日。その前夜、寛雅氏はふと子供たちの会話を小耳にはさむ。

 「明日天皇陛下がこられるの、うれしい?」

 尋ねているのが、フィリピンからの引き揚げ孤児、又吉達子さん(小学5年)。

 「たっちゃん、どう思う。うちはうれしいような、悲しいような気持ち」

 満州からの引き揚げ孤児、木村節子さん(小学4年)。父は、ソ満国境で戦死。母は引き揚げの途中の奉天で死亡。死ぬ間際、母は「天皇陛下のいらっしゃる祖国は安全だから帰れ」と言い残して息を引きとった。「そういう天皇陛下に会えるのはうれしい。だけど、明日お父さんかお母さんのどちらか一人おったらうれしいのに。お父さんもお母さんもおらんから悲しい」――。

 翌日、天皇陛下が「洗心寮」を訪ねられた。沖森佐賀県知事が奏上。だが、「90万県民ひとしく……」その後は、感極まって言葉がつまってしまった。陛下も人びとも次の言葉を待っているが、沖森知事はしばらく言葉が出ない。入江侍従(当時)が「落ち着いて、落ち着いて」と言いながら知事の背中を2回さすってあげると、ようやく後の言葉が出てきた。

 《知事さんは、ああだけどぼくはそういうことはないぞ》

 続いて寛雅氏が、奏上文を読み始めた。すると、戦中の思い出があふれ、頭がカーッとなって奏上文が読めなくなった。やはり入江侍従がやって来て、「落ち着いて」とささやき背中をさすった。奏上が終わると、陛下は壇から降りられて、お顔を近づけられた。

 「子供たちを育ててください」

 その後、寛雅氏の先導で各部屋を回られた。陛下が来られても、異常な雰囲気にのまれたせいか、子供たちは黙ってあいさつをしない。その子供たちへ陛下の方から頭を下げられ、一人一人に「いくつ」「どこから」とお尋ねになった。

 「七つ。朝鮮から」「あ、そう」と深くうなずかれる。

 《陛下の「あ、そう」をあれこれ言う人もいるが、これほどお優しい言葉はないんですよ》

 《本当に陛下が心のきれいな方だと思ったのは、子供たちの「サヨナラ」をお聞きになると、スッと戻って来られて、「さよならね、さよならね」と答えられたときでした》

 最後の部屋はご予定になかったが、陛下がスッと入られた。そこには両親の位牌を持った木村節子さんがじっと待っていた。

 「だれの?」

 「父と母の位牌です」

 「どこで?」

 「父はソ満国境で。母は引き揚げで死にました」

 「お一人で?」

 「コロ島までおじさんに連れられて」

 「そう」と深くうなずかれる陛下。

 「おさみしい?」

 「いいえ、さみしいことはありません。父と母は仏の国に行きましたから」

 陛下は右手に持っていた帽子を左手に持ちかえられ、二度ほど節子さんの頭をなでられた。そして、「立派にね。おすこやかにね」と、満州から引き揚げて来た佐々正男くん(小学5年)が、いつのまにか陛下の服の端をつかんで離さず、陛下の後をくっついて歩く。周りの者はあわててその手を離そうとするが、陛下はニコニコ笑っている。とうとう、自動車の所までついていった。陛下が乗ろうとされたとき、

 「また来てね」と正男くん。

 「また来るよ」と陛下。ほほえましいエピソードである。

 《印象的だったのは、シベリア帰りのバリバリの共産党員が、陛下のお言葉と人格にふれて、涙を流して改心したことです。今では議員をしている友人ですが、陛下のお言葉で恨みの思いが解け、泣けて泣けて仕方がなかったと語ってくれました》

【ご巡幸メモ】

 九州ご巡幸で陛下は「なるべく汽車の中での食事が無いように」と指示された。『天皇さまの還暦』(人江相政著)で、次のような新聞投書が紹介されている。「自分は宗太郎(或は重岡)の駅で陛下をお迎えしていた。汽車は非常な登り勾配、したがって徐行だから、お部屋の中までよく拝見出来た。陛下ははじめ奥の方においでになったが、自分らがホームに立っているのにお気付きになって、急いで窓のところに出て来て下さった。どうやらお食事中だったらしく、左手にナプキンを、右手にお箸を持ったまま御会釈くださった」

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »