
昭和22年12月8日~11日
天皇陛下は昭和22年12月8日、暮色せまる倉敷駅にご到着になり、山陰・山陽をめぐる中国ご巡幸の最終地岡山県に第一歩をしるされた。
2日目、陛下はこれまでと同様、自動車とお召し列車を乗り継いで分刻みのご視察を始められた。児島郡興除村(昭和46年に岡山市に合併)を訪問されたのは、大農法式による機械農業の先進地として全国に知られていたからである。かつて海面下であったこの地は、文政年間から備前藩により数度にわたる干拓が行われた。
新田は、藩の儒学者小原梅坡(ばいは)の提案で『管子』のなかの「興利除害」――利を興し害を除き豊饒の地とするの語から、興除村と命名。農家の二、三男が主に入植し、開墾を重ねた。大正6年、村内に農学校が新設されたが、山崎久次郎校長は先見の明の持ち主であった。将来、若い女性が泥にまみれる農家の青年を嫌う事態を予想し、大学でもほとんどが男女別学の当時に、男女共学を実施している。

大正13年夏の大かんばつは、興除村民に水揚げ用の石油発動機、バーチカルポンプの必要性を痛いほどに思い知らせたが、これが農業機械化の出発点となるのである。村内での小型発動機製造に始まり、昭和11年には全国初のトラクター競技会を開催するまでに――。
ご巡幸の昭和22年、興除村の農家1135戸には電動機950台、石油発動機1690台、揚水機1385台、動力脱穀機854台、自動耕運機553台、製縄機320台などがそろっていた。1戸に数台の機械があった割合になる。
陛下は機械による耕運、脱穀などをご視察。雨後の田んぼに足を踏み入れられて、靴が泥とわらくずで汚れることも一向に気になさらず、「石油発動機は人の何倍の作業をするか」「1時間にどのくらいの作業が出来るか」と熱心にご質問された。
その陛下のお姿を見て、感激の思いに満たされながら作業を進めていた1人に守屋亘氏がいる。
明治34年、興除村の農家の長男として生まれ、漢文、数学、英語を学びながら農業に従事した。28歳で結婚。2.3ヘクタールの土地に米・麦・いぐさを家族で作り、銃後の守りを担うのが、彼にとっての戦争だった。
《供出は厳重にやりました。怠ることは絶対しませんでしたで。一番多く供出したつもりです。麦ばかり食べて、米を供出しました》
しかし、敗戦。
《正直、米軍からどんな仕打ち受けるか心配しました、しかし負けた者の卑しい根性で人格のない行いしたらいかんと思いました。米軍の人とすれ違うときは必ず敬礼をするよう、村のみんなに言い、もちろん家族にも実行させました。だって、日本人はこれから発展しなけりゃいけない。米軍に不道徳なことすれば、前途は真っ暗と思いましたから》
陛下をお迎えした興除村民の「万歳」の歓声が、天に響いたと守屋氏は表現する。地元『合同新聞』は、このご巡幸にこたえ、米の供出成績が先月末に比べ、10%近く上昇した、と伝えている。深刻な食糧不足にあえいだ22年、同村では3万9千石余の米の収穫が見込まれたが、そのうちの八割近い3万8百石が供出割当量となっていた。「麦を食べて米を出した」という守屋氏の言い分は決して大げさではない。この興除村は戦後、県下第一の米作地として不動の地位にあり、その村の名のとおり豊かな地として日本再建に貢献したのである。
《家族が、父親をもりたてて努力すれば、家は発展するんです。同様に、陛下は日本国家の“お父さん”ですから、国民が心を合わせて努力するとき、国は繁栄すると思います》
明治36年生まれの青本虎夫氏は、岡山新聞社を経て昭和7年に山陽新報社に入社。戦後すぐに社会部長に。岡山ご巡幸の際、岡山、倉敷両市をご視察の陛下に同行し、次のような感想を記している。
「天皇を迎えた国民は到るところで感激と感涙にむせび最高度の尊敬と敬慕の念を捧げた。(略)国民は物が高い、食糧が足らぬ、家がない…という生活の苦悩を忘れて有難がった。遺族などに対し『苦しかろうが明るい希望に生きてもらいたいもんだネ』と激励されるときの天皇陛下は無謀な戦争に対する責任というよりも『お互にこの大悲劇を避けたかったが、避け得なかった、国民もそう思うだろうが自分もそう思う…』と耳打ちし、ささやいておられるようであった。ここに初めて私はヒューマニズムへの基底に触れたような思いがした」
岡山市内の静かなたたずまいの自宅で、すでに81歳の青本氏は記者を前に、静かに語った。
《初めての背広姿の陛下に誠実な人間性を見、親子、兄弟のような親しい感情を抱きましたね。当時、中央では天皇制に対する批判もありましたが、岡山では全くなかったですね》
青本氏は昨秋、半生を一冊の本にまとめた。題は『揺れ動いて八十年』。国家が世界史に残る大戦、そして日本史上かつて経験のなかった敗戦を味わい、大きく揺らいだとき、その時代を生きる人びとの人生もまた激しく揺れ動いた。けれども、貧困と混乱に見舞われながらも、国民は、そして天皇陛下は、日本の最も大切なものを守り通そうと努力したのであった。
敗戦から40年。守屋氏は、敗戦と聞いて道路で地団駄をふんでくやしがった父親の姿を思い浮かべながら、かみしめるように言う、
《あのときは、みなくやしがった。けれど今考えれば、よくぞあのとき、降伏したと思います。ソ連や中国が上陸して分断されないうちに、終戦とした日本は神に守られとると思いますな。日本がこれほど安らかな国になったのは神に守られとるからや》
【ご巡幸メモ】
津山市内に住む奈戸こもよさん(当時83歳)はご巡幸十数日前から両足が全くたたなかったがぜひとも陛下にお目にかかりたいと前夜一心に神仏に祈ったところ、不思議にも12月11日朝になると完全に歩けるようになり、めでたくお迎え出来たとうれし泣きに泣いた、と『合同新聞』昭和22年12月付は報じている。







