トップ社会陛下と広島5万の市民 すべてを語り、感激の涙 ~広島編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

陛下と広島5万の市民 すべてを語り、感激の涙 ~広島編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
人類史上初の爆心地となった広島市。奥に原爆ドーム、手前は被災からしばらくして被害を受けながらも運転を再開した市電。戦後80年、原爆の歴史を刻むかのようにたたずんでいる
人類史上初の爆心地となった広島市。奥に原爆ドーム、手前は被災からしばらくして被害を受けながらも運転を再開した市電。戦後80年、原爆の歴史を刻むかのようにたたずんでいる
被爆したクスノキ(手前)と広島城の天守閣。原爆が落とされたとき、江戸時代から続いた天守閣も原爆によって倒壊。のちに観光用に建て替えられた
被爆したクスノキ(手前)と広島城の天守閣。原爆が落とされたとき、江戸時代から続いた天守閣も原爆によって倒壊。のちに観光用に建て替えられた

 昭和20年8月6日午前8時15分、広島県広島市上空に青白いせん光が走った。米軍のB29が落とした5トンの原子爆弾1個は、市内の約60%、約44平方キロを廃虚とし、人口31万2千人中、死者および行方不明約20万人を出すに至った。

 この日から9日後、日本は大東亜戦争に終止符を打った。

 22年12月7日、陛下はこの地をお訪ねになっている。

 当時の中国新聞の社説は次のように謳った――。

 「広島に投下された原爆が間接の動機となって、陛下もついに終戦の御決意を固められ、それが終戦の詔勅となって平和が訪れてきたのである。陛下と広島はこの意味からも、つながりは非常に深い」(12月7日付)、「今迄の各地巡幸にもまして重要な意義を持っていることはいうまでもない」(同10日付)

 この日、広島市内の沿道、駅などの各所は、20万人の奉迎者であふれた。殊に5万人市民がお迎えした奉迎場で、陛下は次のように語られた。

 「…広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」

 これに対して、犬丸行幸主務官は、「奉迎場で陛下がお言葉を発せられたのは広島市がはじめて」と、記者団に述べている。陛下の、被爆地・広島市への特別のご配慮がうかがえる。

 翌8日、深安郡千田村(現在福山市)では、谷田タミコさん(当時24歳)が、中国ご巡幸のうち紅一点、「牛耕」のご説明役の光栄に浴した。

 昭和12年、谷田さんが14歳のとき、父は肺炎で他界。以来、母を助けて田畑を耕すため、牛を使って、120センチメートルの身の丈ほどもある鋤(すき)をあやつった。

 《つらくて涙がボロボロ出てなあ。牛が思うように動かんし、鋤は重いでしょ》

 6反ほどの耕地、しかも小作だったから、供出分と小作料を差し引いたら、手元に収穫量のうち3分の1しか残らなかった。

 「いかに省力化し、生産向上を図るか」――谷田さんは、同じ鋤を握るにも、常にこのことを念頭においた。そうして編み出されたのが、「二段耕」だった。

 これは、それまで男手が1度に鋤(す)いていたのを、2度に分ける。そうすれば人も牛も楽になり、土もこなれて、作物の種も発芽しやすく、肥料の吸収もいい、と。それが16歳のとき。その年、中国地方の「牛耕大会」に出場し、みごとに一等となった。

 昭和16年、大東亜戦争が始まってから谷田さんばかりでなく、銃後を守る女性が、鋤、鍬(くわ)を男性に代わって握る時代となった。谷田さんの「二段耕」は、広島県内に広まり、またその指導に、九州、四国まで出かけたりもした。戦時中、谷田さんは「戦いに勝つまでは」との闘志に燃えていた。昼は、農作業、夜は兵器を包む莚(むしろ)を編んだ。2、3時間しか寝なかった。敗戦を知って、隣のオバさんと抱きあって泣いた。「頑張ってきたのになあ」

 《「負けた」というその瞬間は、何とも言われんですな。(そのときの気持ちは)言葉で表せんでしょ。もうそれは、私らの時代の前後の人でないとわからんでしょ》

 その後も、2人の弟が社会に出るまでは親代わりに面倒を見て、結婚したのは22年の秋。25歳にあと2カ月の年齢になって当時としては、もう〝オバさん〟と言われる年ごろだった。

 その日は、晴れ渡っていた。千田村の山あいを奉迎者が埋めつくした。

 午後1時過ぎ、陛下のお召し自動車が到着する。備後ガスリと地下足袋姿の谷田さんは、前に立たれた陛下をひと目見て、身をかがめた。

 《今のような安心されたお顔じゃない。お若いのにやつれておられた》

 下の耕地では、15人の婦人が、陛下に牛耕をご覧に入れるなか、谷田さんが涙ながらに、ご説明する。

 「…消費県から生産県への(広島)県の構想に対して、女といえども出来るだけのご奉公申しあげたいと思います」

 「大変でしょうが頑張ってください」

 《まあ、3分間と短かったけど、自分がそれまで言おうとしたこと、考えとったこと、お話したい人に全部お話させていただいたように思うとります。みんな込み上がったじゃあ思うんです。耐えに耐えて、人に言わないで、ためにためて来とるでしょ。(また)私が、陛下に戦争中から戦後支えてきた婦人の苦労をお話せにゃという使命感にかられて……》

 陛下は、次のご巡幸先、神辺町に向かわれた。

 残された谷田さんは、陛下に聞いていただいた感激にその場に泣き伏した。オイオイ泣いた。

 一方、奉迎者の「万歳」「万歳」が山にこだました。陛下のお車が見えなくなっても去ろうとはせず、「万歳」「万歳」の連呼は続き、陛下のみあとを名残り惜しんでいた。

 《陛下のために、陛下のために、お国のために、お国のために、みんな若者が死んでいって終戦になったといっても、あれだけの奉迎者が、「万歳」「万歳」でお見送りするということは、日本の国民のいいところじゃないですか》

 谷田さんは、夫の恭蔵氏(61)と米・麦だけの生産から畜産を営む専業農家に昭和29年から変わった。今では、谷田さんの住む神辺町御領の65軒の部落のなかでも、専業農家は2軒だけである。

 《農業というものに対する気持ちは、昔も今も変わらんでしょ》

 谷田さんは、陛下がテレビに映し出されると、お会いしたときの陛下と現在の陛下を頭のなかで比べてみる。「どうぞおすこやかにお暮らしくださるように」と、正座して手を合わせて陛下のご健康を祈るタミコさんである。

【ご巡幸メモ】

 昭和22年12月、陛下の広島県下ご巡行での県民の出迎え、見送り、歓迎ののべ人数は100万人というものすごい人手であった。広島鉄道局管理部の調査によると5日は、大竹市、宮島で約3万2000人、7日広島市、呉市、三原市で52万人、8日三原市、尾道市、福山市で42万人、計97万2000人に達し、広島県民の約半数が歓迎に出たことになる。

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