
昭和22年12月5日~8日
朝倉義脩(ぎしゅう)師(旧姓増田修三)、49歳。現在真言大谷派山陽教務所所長として、姫路を拠点に広島との間を月に何度も往復し、信徒の教化活動に忙しい。
広島原爆投下の昭和20年8月6日、小学校4年生だった修三少年は、広島市郊外の山村のお寺に集団で学童疎開していた。両親と4歳の妹の3人は、そのとき爆心地から西900メートルの天満川沿いに住んでいた。

8月15日、終戦を迎えたが、いつまで待っても両親はおろか親戚も修三少年のもとに訪ねて来なかった。他の学友たちは、一人また一人と両親らの手にひかれて帰って行く。修三少年は疎開先でとうとうひとりぽっちになった。
《両親、妹たちは、原爆でやられたらしい…》
その年の暮れ、修三少年は、広島県佐伯郡五日市町の戦災児育成所にひきとられた。同育成所は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の山下義信師=元参院議員=が私費で開設したもので原爆遺児86人が収容された。
当時10歳の修三少年は、両親や妹への思慕が募るばかり…。山下所長に「会わせてほしい」と泣きついたことも。
「お経をあげれば、両親や妹さんに会える」――山下所長の勧めで、修三少年は出家を希望した。他の4人の少年もあとに続き、21年秋、京都の西本願寺で「五人の少年原爆僧」が誕生した。そして育成所近くに設けられた童心寺で、僧堂生活が始まった。修三少年、小学校5年のときである。
戦後、さまざまな形で被爆地広島は注目を浴びてきた。日本ばかりでなく世界からも。そして原爆僧、修三少年も注目を浴びた。
昭和22年12月7日、中国ご巡幸の天皇陛下は、広島市内へ向かう沿道でお車を止められて、黒染めの法衣をまとい、念珠を握った5人の原爆僧を励まされた。
「どうかしっかり勉強して明るく立派な人になってください」
その場に居合わせた大人たちはそのお言葉に涙を流した。
《正直言って、当時は、幼くてことの重大性がわからなかった。ときに触れて語られる先生がたの話を通して、だんだん日を経るごとに実感が湧いてきたのです。(お言葉は)ひと言でしたけど、そのなかに込められた願いを受けて真面目にやらないかんな、と思って現在まで来ました》
昭和25年冬には、『新平家物語』を執筆中の吉川英治氏が、安芸の宮島で取材旅行の帰途、ひょっこり育成所に立ち寄った。
吉川氏は、自分の少年時代を修三くんらに話すのだった。
「家が貧乏で学校に行けず、4年生の中半で小僧奉公に行ったんだよ」「読みたい本がたくさんあったけど買えなくて…。ある日、母から一冊の古い本が届いた。うれしくて涙をこぼしながら何遍も読んだよ。このとき本当に親はありがたいもんだねと感じた」
そして吉川氏は、修三少年らを慰めるように「東京へ出て来なさい。一晩ゆっくり話してあげたい」と別れ際に語った。
《そのとき、先生というより、「お父さん」とお呼びしたかった》
こうして吉川氏からこんな手紙も届いた。
「…あなたたちは、何しろ楽しくなければいけません。宗教も政治も、根本は人をしてこの世を楽しい浄土として送らせることにあるわけですから、自分自身がまずこの世を心から楽しめる人にならなければだめです。自分がめそめそしてゐて、人を楽しませることなんか出来ませんね。…ですからまず自分自身の命を、玉のごとく愛し、いつくしむ心がけが大事ですよ。…あなたがたが、尊い、広島の苦患の大地から生まれて、幼い御身に法衣を着られて…日本もまだまださういふ若草が萌える国土であることを有難くおもっています」
アメリカからは、ノーマン・カズンズ氏が来た。
《アメリカへの恨み?捨てました。戦後、米国の有識者は、ノーマン・カズンズ氏の精神養子運動で見られるように、原爆のつぐないをしてくれた》
奨学金、アルバイトで苦学を強いられながら、崇徳中学、高校を経て、京都にある龍谷大学を33年卒業後、福井市の東本願寺常照寺の養子となって朝倉と改姓した。京都、札幌、名古屋の東本願寺・本山教務所を巡り、58年から現在の姫路へ来た。広島も管轄下にある姫路の山陽教務所は、朝倉氏自身、希望した人事でもあった。
《〝原爆〟一つで人生が変わった。しかもいい方に。原爆で親を亡くした、というところから私の人生が始まって良き人、良き師にめぐり会い、励まされました。それが、自分の心のなかに常にあり、自分の人生に大きなプラスになった。歎異抄の〝よき人のおおせをこうむりて〟の境地です》
《今考えると、ご巡幸がなかったら、いろんな反動もあったでしょうな。広島の復興にしても、力づけたと思う。「天皇さん、天皇さん」と言うとる国民の願いのなかで、いつまでも元気でいて欲しい》
今年8月6日、広島原爆投下40周年を迎えた。
派手な「反戦、反核」の集会が開催されたなかで、朝倉さんは、本堂で静かに阿弥陀経をあげ、父母や妹をはじめ死没者の冥福を祈るとともに、世界平和を念じた。
【ご巡幸メモ】
昭和22年12月7日、被爆地広島市の奉迎場で、天皇陛下と5万人の市民の奉迎の瞬間をとらえようと、外国人記者団の一行18人が待ち構えていた。アメク紙ファーガーソン記者は、「天皇は大分疲れておられる。しかしこの市民熱狂では疲れも忘れてさぞ喜んでおられることだろう。平和の天皇にふさわしい方だと思う」。ノース・アメリカン紙フォーク記者は「天皇はいい人だ。市民は涙を流して奉迎に熱狂しているが、これが日本人の真の国民性なのだろう。美しい光景だと思う」と感想を述べている。







