

昭和22年12月1日~5日
昭和22年、外地から9の引き揚げ者は実に74万3757人を数えた。
下関市上田中町に住む前原正義氏(当時40歳)も、この年に中国の大連から引き揚げて来た一人である。戦時中は、大連に設置された州庁の警察部事務(衛生局)に勤めていた。
戦時中は、「楽なものだった」というほど大連は内地に比べて物資に恵まれた。物は安く、豊富だったので、ぜいたくな暮らしができた。それが、終戦と同時に急転直下、地獄に突き落とされた。
終戦後、中国共産党の八路軍に投降。戦犯の疑いをかけられ、2カ月投獄される。その間、取り調べらしい取り調べもなかった。ベルトをはじめ何もかも没収されて、いつ出られるかわからない日々が続く。

そんなある日、突然前原氏は釈放され、「いつ帰るか」と毎日外を見ていたという妻すゑさん(当時33歳)と無事な再会を喜ぶ。
しかし、その後の生活は困窮し、着物などの売り食いを強いられた。それとともに、ソ連軍進駐による恐怖の日々が続いた。
《ソ連の兵隊は力があった。戸をひっぺがして侵入、ラジオなどを持っていった。子供たちは押し入れに入れて、口をきかさんようにした》(すゑさん)
《ソ連はひどかった。歩いている人も、トラックで有無を言わさず連れていった。そりゃあ、口では言われんほどひどいことがあった》(正義氏)
中国人の暴徒に家を襲撃されたこともある。しかし、なかには親切な中国人もたくさんいた。州庁に勤めていたときのボーイが、保安隊に入っていて、「ポン友だからめんどうを見てくれ」と仲間に頼んでもくれた。
また、終戦前から「あんたは早く日本に帰りなさい」と忠告してくれていたガラス屋の親父さんは、暴動が起きると同時に駆けつけて来て、荷物を自宅に運び隠してくれた。もちろん、荷物はそっくり戻って来た。困っているときは、昼食にも招いてくれた。
昭和22年3月、待望の引き揚げが決まった。その日、トラックに詰め込まれて、大連港に向かった。港に停泊していた日本船の日の丸の旗が見えたとき、「バンザイ」の声がどこからともなく起こり、涙がとめどなくあふれた。涙でぼやけた日の丸の旗だった――。
帰国の第一歩は、佐世保だった。夢にまで見た祖国のかぎりなく美しい山河。しかし、その祖国も戦争で荒れ果て、人心もすさんでいた。前原氏夫婦にとって、祖国での生活は、死と隣り合わせの暴徒による襲撃やソ連軍の略奪の心配はなかったが、裸一貫からの出発ということでは変わりなかった。
前原氏は、佐世保の収容施設から、兄を頼って山口県下関を訪ねる。しかし一縷(いちる)の望みをつないでやって来た兄の家も、大黒柱の兄が病いの床に伏せっており、とても一家5人が頼れる状態ではなかった。
ようやく、下関の引き揚げ者寮に転がりこんで、雨露だけはしのげるようになった。2日目から、すゑさんは、街頭に立ちタマゴなどを売り歩いた。それでも生計は苦しく、子供の洋服、衣料切符もお米にかえた。食費を切りつめるため、コーリャンもよく食べた。
昭和22年12月1日、中国ご巡幸第6日、150万県民の待つ山口県へ、お召し列車は仏坂トンネルを抜けて入った。小雨の篠つく初冬の長州路である。
3日、前原氏は下関市役所の2階にあった引き揚げ者寮で、陛下のご巡幸を仰ぐ。市役所に入られた陛下は、市長などのご説明を受けられた後、2階へ向かわれた。
引き揚げ者で、主人をなくした大島ツタさん (当時26歳) のところでは、5歳の長男に、「坊や元気でね」、中本有利氏 (当時38歳)一家には、「よく帰って来たね」。妻を失い4人の子供を抱えた泉清氏には、「大変だったでしょう」とつぎつぎにお声をかけられた。
そして、前原氏の前に陛下はお立ちになった。
《長いこと待って待って座っていた。そりゃあ神さまですもの。お顔なんぞ見られんかった。お声を聞いただけで、涙、涙でした》
「引き揚げは大変だったでしょう」
「苦しいでしょうけど、よくやってくださいね」
涙がただあふれてほおを伝ってやまなかった。祖国を思いながら暮らした、中国での生活。その苦労の一つ一つが陛下にお会いすることによって、洗い清められたような気がした。このとき初めて、祖国日本に帰って来た実感がふつふつとわいてきた。
《そりゃあ、何も言えんですよ。人間天皇などと今では言われていますが、あのときはやっぱり神さまでしたね》
天皇陛下はそのとき前原氏にとって祖国そのものだったのかもしれない。回想しながら前原氏はポツリとつぶやいた。
《戦中、戦後、あれだけしいたげられてきたので、人生の道を踏みはずしたっておかしくなかった。それが正しい道を歩んで来れたのも陛下のおかげですねえ》
【ご巡幸メモ】
山口巡幸第1日の昭和22年12月1日は雨だった。その雨の日の萩市立図書館前では、陛下をお待ちするウバ車に乗った2人の老人の姿がみられた。息子さんに伴われた福井吉三郎氏(94)と近所の人に連れらえた奥村ヨシさん(84)である。「天皇さまを拝まれればこれで死んでも本望です」と2人は手を合わせて涙まじりに語った話が、当時の『防長新聞』で報じられた。





