トップ社会農業に励む戦争未亡人 「強く明るく子供のために」 ~島根編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

農業に励む戦争未亡人 「強く明るく子供のために」 ~島根編2~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
島根県の山間部にまでご巡幸の足を運ばれた昭和天皇
島根県の山間部にまでご巡幸の足を運ばれた昭和天皇

昭和22年11月29日~12月1日

 長谷川誠 昭和14年8月歩兵第63連隊補充隊に応召 歩兵砲中隊に編入 11月歩兵第54連隊に転属 第三大隊第三中隊編入 支那派遣 12月青陽貴池作戦参加 昭和15年2月銭塘池作戦 5月宣易作戦 10月江南作戦 漢水作戦 12月予南作戦 昭和16年9月沁河作戦 12月江蘇省戦闘において戦死 陸軍伍長 叙勲七等 青色桐葉章・功七級金鵄勲章 (享年25歳)

 『遙かなる山河』(能義郡戦没者の記録から)

島根県の地図

 安来節で有名な安来市から、南へ8キロ、鳥取県との県境に近い能義郡は山間部の水田地帯である。その安田に住む長谷川キミ子さん(当時22歳)は、昭和14年11月、中国へ出征する夫の誠氏を鳥取県の米子駅で見送った。19歳で結婚してから、わずか3年目の初冬の日のことである。誠氏は、汽車の窓から腰半分以上のり出しながら、年若い妻を見つめた。

 「牛は少なくしてもいいけど、田んぼだけは、自分が帰るまで売らないでくれ」「子供のことをくれぐれもたのむけん」

 これが、夫を見る最後になるかもしれないとキミ子さんは思った。

 《軍人の妻ということで、「お国のためだ」といちずに思いこんで涙をこらえました》

 家には、しゅうとと姑、2人の子供、そして1町9反の水田、3反の畑、牛4頭が残された。キミ子さんは、誠氏の期待にこたえようと必死で働いた。

 翌年の秋、近いうちに帰るとの便りが、上海の誠氏から届いた。「土産に子供の靴を買うから大きさを知らせてくれ」と書いてあった。キミ子さんは、胸をはずませながら返事を出す。

 しかし、誠氏はついに帰らなかった。

 戦死の公報が来たのは、昭和17年1月2日。その前日の元日、近くの宮内八幡宮にお参りに行った、そのとき、履いていた高下駄の鼻緒がぷつんと切れ不思議な気持ちがした。

 《やっぱり(戦死の)お知らせだったかなあと思った。軍人の妻として、いつ公報があるかわからんと覚悟はしていた。びっくりはしましたが、これからは2人の子供のために一生懸命に生きなければならないと思い、居ても立ってもおられんような気持ちでした》 子供は、6歳と4歳の男の子。まだ戦争が激しいときだった。「朝は星が出ているうちから、夜は星が出るまで」土を耕し、4頭の牛の世話に明け暮れた。2人の子供のために、と仕事に打ち込む毎日だった。1町9反の水田、3反の畑とはいうものの、しゅうとは木挽(こび)き職だったので、農作業を手伝うことが出来ない。それで、農業は姑とキミ子さんの2人で励んだ。そのころの思い出を、キミ子さんは、「夫への手向」(能義郡遺族会婦人部発行『歩みの跡』から)と題し次のように綴っている。

 「昭和17年の秋、2人の子供を連れて麦まきに出ていると、兵隊さんの演習があり遠くから鉄砲の音が聞こえて来ました。これを聞くと弟の方が、『兄さん、お父さんも演習に来ているから帰って来るよ』と言うと兄は『お父さんは戦死してしまったんだ。待っていても帰りゃしないよ』と話し合っていましたが、私の腰もとに駆けよって『なぜお父さんは死んでしまったんだ。僕たちつまらないなあ』と言ったとき、私の胸は張り裂けんばかりでした。けれども顔で笑って『早く大きくなって、母ちゃんの手伝いをしてくれよ』と言うと、無邪気な子供は2人でまた遊んでいました」

 男手のないなかにあっても、昭和19年の供出では、割当量85俵に対して25俵も多く供出して表彰された。

 玉音放送を近所の人とともに自宅で聞いた。そのときは、何のことか、はっきりわからなかった。だれかに言われて、「敗戦」という二文字が重くのしかかってくるのを感じた。その瞬間、色々なことが胸をよぎった。が、戦争に負けても、キミ子さんには2人の子供がいた。その無邪気な顔を見て、がんばらなくてはならないと改めて心に誓うキミ子さんだった。

 昭和21年、郡内で第1番に60俵を完納する。

 翌22年11月29日、天皇陛下は氷雨のなか、日立製作所安来工場に到着された。工場を視察された後、雨に打たれたまま、陛下は遺族席に近づかれた。

 《前の晩は緊張して寝られなくて。陛下がおいでになったときは自然に頭が下がりました》

 高橋安来町長が、「主人が戦死した後、2人の遺児を抱えて農業に励んでおります」とご紹介申し上げると、陛下は

 「子供たちを元気で育ててね。元気でね」といたわられた。

 「主人は戦死しましたが、2人の子供の父となり母となりまして、必ず日本再建に役立つように子供を育てます」

 「しっかりやってね」

 陛下はやさしくうなずかれた。今でも、あのお言葉が忘れられないとキミ子さんは言う。

 《お声をかけられて、強く明るく、子供のために生きなければ、という気持ちになりました》

 2人の子供も無事に育てあげ、今では4頭だった牛も、40頭に増えた。「人の世話にはならない」と言うキミ子さんだが、「メガネのおばちゃん」と慕う孫には思わず相好をくずす。

 毎年、護国神社の大祭と命日には、必ず夫の冥(めい)福を祈って参詣を欠かさない。

【ご巡幸メモ】

 島根県のご巡幸が終わって陛下は汽車のなかで、県知事など関係者を召されて慰労された。さがってきた知事は、感激のあまり陛下のお言葉をすっかり忘れてしまった。それで何を仰せられたかお教えくださいと、当時の大金侍従長に頼んだ話が『巡幸餘報』に出ている。「この人にしてこの言葉あり、凡そ陛下に対するとき、人という人は、皆その魂を浄化せられて、第一義的な日本人としての本来に帰るのである」

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »