

昭和22年11月27日~28日
「ぼくの少年時代は異邦人のようなものだった」
社会福祉法人鳥取こども学園(砂川晋治園長)の児童指導員の藤野興一氏(43)は、子供時代の思い出を語りながら、ポツリとつぶやいた。
敷地1万平方メートルにも及ぶ同学園は、鳥取駅から歩いて15分の天神川と袋川が合流する所にあり、昭和23年まで「鳥取育児院」という名称だった。保護者のない児童や養育が困難な児童を家庭に代わって養育する養護施設であり、藤野氏はここで幼少時代を過ごした経験を持つ。

こども学園の初代園長は藤野武夫氏、すなわち実の父親だった。しかし物ごころのついたころ、一緒に遊び学んだ友だちには両親がいなかった。少なくとも、身近に肉親のいない子供たちばかりだった。
学園を親が訪れたら、「だれの親か」と子供たちは大騒ぎをして見にいった。親のいない子供たちは、肉親の愛情に飢えていた。藤野氏は、そんななかで孤児たちと同じ生活をした。
このこども学園は一時期、本来の趣旨から逸脱して、多数の浮浪児を収容したことがある。空襲で焼け出された戦災孤児、引き揚げ孤児などが遠く京阪神地方からも送られて来たのだ。
戦後は、多数の人びとが家を失ったが、戦火で父母を失った子供が浮浪児となった時代でもある。22年の全国孤児一斉調査では、18歳未満の孤児は12万3504人、そのうち7080人は浮浪の経歴を持っていた。
「駅の待合室、地下道を数千、数万の人たちがねぐらとした。戦火で父母を失った子供たちは浮浪者となって、七歳の浮浪児がシケモクをふかし、十二歳の少女が売春をした」と『東京闇市興亡史』にある。
当時の上野では毎年100人近い凍死者を出していたという。浮浪児は、モク拾い、靴みがき、ヤミタバコ売り、切符買い、新聞売りなどをして暮らした。
《食べる物がなかったから、畑を耕してカボチャとイモを作った。カボチャばかり食べたのでみな顔が黄色くなってしまった》
子供たちにとって、遊びはすべて食糧確保に結びついた。川では食用ガエルや魚などを取り自分たちで焼いて食べた。食事の時刻を告げる鐘が鳴ると、必死で走って戻って来た。遅れると、自分の分がなくなってしまうからだ。
《よくお百姓さんに追いかけられてたなあ。畑の大根ぬいて、その場で小刀で皮むいて食べた。椋(むく)の樹の実なんか、青いうちからとって、箱にモミがらいれて熟(う)らして食べたんです》
昭和22年11月27日、鳥取市は朝からアラレと初雪が降りしきっていた。その雪のなかを五輛編成のお召し列車は徐々に鳥取駅の下りのプラットホームに近づき、静かに止まった。
降りしきる雪のなかで、大勢の人たちが陛下のお姿を今か今かと待ちわびていた。陛下のお姿が現れると、「うわあっ」と叫び声が期せずして起こった。
陛下は静かにお車に乗られ、帽子をお取りになって歓迎にこたえられた。ジープがまず走り、1台、1台と歓迎のなかを出発した。陛下のお車は4台目、それに関係者の車十数台が続く。市民はいつまでも陛下のおあとを慕って去らなかった。
こうして、山陰行幸は、雪の鳥取県からスタートした。
この日を待ち望んでいた人びとは、雪の降りしきる朝早くから奉迎場などにつめかけた。地元紙『日本海新聞』は、午後2時22分から始まる奉迎のために、鳥取市公設グラウンドの奉迎場には午前8時ごろから人びとが集まって来たと伝えている。
「その数約1万5000、腰の曲がった老人も、松葉杖の傷痍者(しょういしゃ)も、幼児を背負った若い母親も、横なぐりに吹きつける雪のなかで、傘をかざし、毛布にくるまりながらひたすら陛下のおいでをお待ちしたのだった」(同紙22年11月28日付)。
午後4時、鳥取市立育児院(尾崎悌之助院長=当時)へ馬ノ瀬橋を渡ってお召し車が到着した。約50人の孤児をおいたわりになった後、陛下は講堂で12人の孤児らの「迷い子のヒヨコ」の遊戯をご覧になられた。現在、応接間に掲げている写真が、そのときの情景を写したものである。ニッコリ笑った陛下と2人の子供の背中が写っている。
《男の子が乾誠くんで、女の子は、西脇美智子さん。ぼくはこの後ろにいたんですよ。とにかく緊張したことと何度も練習したことを覚えていますね》
孤児室では、「パパ、パパ」とカタコトの言葉を覚えた孤児にも、陛下はおじぎをされた。
藤野氏の伯母乾幸子さん(71)は、鳥取市西町に住むが、このときは育児院の保母をしていた。子供を抱いているところを、陛下が障子をあけて、お顔をのぞかせられた。
「この小さい子供、大変でございますね」
「大変でしょうね。この小さな子供を世話するのは」
もったいなく、ありがたくて顔をあげられなかったという。
ただ「はい」と頭をさげた。
《ニコニコなさって、ほがらかな、おやさしい人とお見受けしました》
陛下がお帰りになるときは、孤児たちが一斉に顔をのぞかせて「バンザイ、バンザイ」と叫んだ。陛下は二度もお立ち止まりになり、帽子を高くあげてさよならをされた。
《ほかの所には来られなかったのに、育児院には陛下が来られたということで、みんな一生懸命やりましょうと、皆で張り切りましてね》
幸子さんの住む西町の日赤病院の前に、小さな間口のクリーニング屋、駄菓子屋、八百屋などが肩を寄せ合うように並んでいる。これらの店は、こども学園の出身者で経営されていると聞く。
【ご巡幸メモ】
当時米子市に住むカトリック教会のヨセフ・メスメル神父は、「天皇を戦争責任者ということは、私にはわかりません。天皇がいなければ、もっと日本はみじめになっていたでしょう。行幸によって、山陰の人びとの心に、自然な敬愛の情のみちていることがはっきりとわかりました」と感想を述べている。





