トップ社会陛下、旅館に初のご宿泊 斎藤茂吉らとなごやかにご歓談 ~山形編3~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

陛下、旅館に初のご宿泊 斎藤茂吉らとなごやかにご歓談 ~山形編3~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
山形県の地図

日本再建にと陛下ふたたび

昭和22年8月15~17日

 《私たちの旅館は戦前から、宮さまのお宿としてお務めいたしてきましたので、宮内庁のご検分でもすべての調度は旅館の物でよろしいということで、お荷物は荷解きをなさらずに間に合いました。「いつも行幸のお泊まり先はその土地の県庁、学校等ばかりで、お付きの者は屋内体操場のような所にむしろや、何かの敷物を持ち込んでもらい仮眠を取る程度で、誠に哀れをとどめたものだった」と、ご同行の侍従さまが述懐されておられました》

 山形県上山市にある村尾旅館は、天皇陛下が初めてご利用になった民間の旅館である。二代目女将(おかみ)、村尾京子さん(72)は、昔ながらのいろりのある帳場で記者に語り始めた。

 それまでは「臣下の泊まるところなどはけがらわしい」とされて、県庁、知事公舎、名士邸などを「行在所(あんざいしょ)」と称してお泊まりになっていたのである。それは大名旅行にも等しい大変な荷物を要した。金銀無地の屏風、榧(かや)の木のテーブル、椅子から寝具、はては小判形のカマなし風呂、折り畳式の厠(かわや)場まで、荷貨車に一輌分もあったという。

 それが村尾旅館では、シーツに枕、電気カミソリ、パジャマなどの用意だけで済んだ。昭和22年8月16日、山形県ご巡幸2日目のことである。

 村尾旅館の創業者、村尾要助氏は苦闘続きの3年に及ぶボーリングの末に、大正11年、あたりの新湯中で最高温度最多量の湧出量を記録する源泉を掘りあてた。続いて村尾氏は、木造建築3階建て、客室12室の温泉旅館をスタート。昭和に入って増築した離荘は、村尾氏が当時の大工に最高の材料で最高の部屋を作るように、と頼んで作らせたものである――。

 ご夕食時、陛下は山形が生んだ歌人の斎藤茂吉、結城哀草果の両氏をお召しになり、村山知事陪席の上、短歌を中心になごやかなご歓談が行われた。まず、茂吉が自身の歌

 最上川ながれさやけみ時のまもとどこほることなかりけるかも

 をご披露。「下の句は山形県民ひいては全国民が、日本再建にとどこおることなく努力するという寓意(ぐうい)もございます」と申し上げると、陛下は大変にご満足そうで、

昭和天皇と歓談した歌人で医師の斎藤茂吉
昭和天皇と歓談した歌人で医師の斎藤茂吉

 「斎藤、病気はどうか」と茂吉の体調を気遣われた。茂吉は「病気は順調によくなっております。このたび陛下に拝謁を賜り、歌について申し上げることの出来ました光栄は師匠伊藤左千夫とともに感銘深うございます」と感激の涙を流した。続いて結城が自作の歌二首をご披露。

 繭(まゆ)車つまとし曳(ひ)けばおのづからむつむこころのわきにけるかな

 結城は「この歌は私と妻が、繭を入れた箱やかごを積んだ荷車を引いて繭売りに行きます途中、坂道を上るのに2人が力をありたけ出し合う事実を詠みました歌で、ひろく農民夫婦の素朴で真実な愛情を歌ったものです」とご説明した。歌にもご造詣深い陛下を中心に話題に花が咲き、30分の予定は1時間以上にも延び、時のすぎるのをお忘れになったかのようであった。

 陛下は翌朝、ご出発されたが、ほんのわずかな時間を利用されて珍しそうに他の部屋も見て回られ「宿屋というものは、人を泊めるのになんと具合よく出来ているものか」と感心なされた。

 《先代在世中は幾方もの宮さまがたのお迎えをいたしまして、ついの夢は行幸啓をお迎え申し上げる念願でございました。その祈りがかなえられました感激はあまりに深く、お入りのときとお帰りのときのお言葉を頂戴しました際に、あまりの恐れ多さに最敬礼のためお顔を拝せなかったということでして、後々までそばの者に残念がったことです》

 村尾夫妻に子供はいなかった。叔父の村尾氏の養女になったのは京子さんが昭和7年、20歳のとき。養母千代の母親は「今このときにお父さんお母さんと呼ばないといつまでも言えないよ」とさとした。京子さんは「お父ちゃん、お母ちゃん、よろしくお願いします」と頭を下げた。

 すると祖母はすぐさま、しまの着物とモンペを取り出して来て、美しい着物で祝宴の場にいた京子さんにその場で着替えて台所に立つように言った。本家のばっち(末娘)で、周囲から「じょっちゃん、じょっちゃん」と慕われていた京子さんの、それが村尾旅館を継ぐ女将としての修業の初日であった。お祝いの宴があれば午前3時ごろまで続き、そのあと、膳(ぜん)ふきを手伝った。しんしんと身にしみる寒さのなかで、膳を拭くつらさ、そして眠気が何よりも苦痛だった。

 京子さんは、お湯や電気の節約方法まで徹底的にしごかれた。またお客さんを玄関に座ってお迎えし、玄関に座って板の間に額(ひたい)をつけてお見送りする村尾旅館のしきたりなどこまごまとした注意を受け、それが身につくまで何度も叱られた。

 《後になって、母の座にすわると、これはこういう意味、あれはどうこう、とみな意味がわかりましたが、当時は何でこんなにむごいことをするのか、と恨む思いさえありましたね》

 結核の父の世話をして半年後、自らも結核を患う。27歳だった。それ以来、両肺深部浸潤―結核性腹膜―足の関節の骨が結核―胸の再発、と約20年近いサナトリウムと別荘生活が続く。だから結婚はできなかった。ご巡幸のときも療養中であった。昭和31年、旅館に戻った。

 《母親の座にすわって、何の不自由も感じなかったのは、母親の教育、しつけがすぐに役に立ったからです。それが母親が私に置いていってくれた、何にも代えがたい宝でした》

 陛下が、35年の植樹祭で山形をお訪ねになり、村尾旅館に3度目に寄られた際、京子さんは初めて女将としてお迎えした。

 《父母がどんな気持ちでお迎えしたのか、いろいろと想像してきました。実際にお迎えしての気持ちはとても恐れ多いことですけれども、なつかしいなつかしい思いでお待ち申し上げたので、自分のお父さんを迎えるような気がしました。あの不思議なお優しさは理屈なしの生来のお優しさそのものなんですね。国民を子供のように思っておられるお優しさではないかしら》

 京子さんはその後も、白内障や大腸ポリープなどを患い、闘病生活は現在にいたるが、そうした体を押しながら、将来、女将の座にすわる孫の嫁に残そうと自らが守ってきた村尾旅館のしきたり、伝統を書きつづっている。

【ご巡幸メモ】

 「高原列車は行く」「東京のバスガール」「高校三年生」など46年間に1200曲を越す作詞を行った丘灯至夫氏(68)は、毎日新聞記者として福島ご巡幸を担当。「天皇陛下を神さまと思って緊張したが、陛下も初めて、〝下界〟へ降りてきたかのようで、とてもお疲れでいて自然、お声が低くなる。陛下のつぶやきでもいいから聞こうと、おそばを走り回ったことをとても印象深く覚えています」

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