
ご巡幸は順調にいけば、昭和23年に終わるはずだった。だが、22年12月の岡山ご巡幸後、中止となる。社会党政権の誕生とそれ以後の政局不安、GHQ内の天皇制廃止派といわれるGS(民政局)の優勢、そのため当時の松平宮内府長官、大金侍従長などが辞職したことが原因に挙げられる。そして、この期間は敗戦直後に続いて、天皇退位論が国内外で一つのピークを迎えたときでもあった。
さまざまな退位説のなかで国際問題まで発展する発言が『週刊朝日』23年5月16日号での三淵忠彦最高裁判所長官、佐々木惣一博士、長谷川如是閑氏の座談会のなかで出た。席上、三淵長官が「ぼくはネ、終戦当時、陛下はなぜに自らを責められる詔勅をお出しにならなかったかということを非常に遺憾に思う」と述べ、佐々木博士がこれにあいづちを打ったのである。
ほんのひと言のくだりであったが、この発言はまたたく間に、『ニューヨーク・タイムズ』、ニューヨーク放送、ロイター、INSなどの特派員によって全世界に伝えられた。三淵長官は急きょ「そのような事実は全くない。自分はその座談会の席上で天皇に関し『天皇は、ご自身のお考えだけで進退を決せられることはできない。ただ、終戦時にもし、天皇が自らをお責めになる詔勅を出されたら、日本再建のうえに、どんなにか国民を感奮せしめるものがあったであろう』ということを述べただけである」と〝打ち消し〟の声明を発表したのだが、その一方でこの声明は天皇退位論者を刺激し、波紋はさらに広がったという。
当時、東大教授横田喜三郎氏は、退位論の急先鋒に立っていた。横田教授は「天皇は日本の元首であり、主権者であり、統治権を総攬(そうらん)し、政治上と軍事上の最高権力者であった」ので「形式的にも戦争の責任をまぬがれないのはもちろんのこと、さらに政府と軍の首脳部は、重要な国家的政策に関して絶えず天皇に報告し、その許可を求め、承諾を得ている。戦争計画と遂行に関しては、天皇は絶えず関係を持ち、意見を述べた。もしこれを抑えようとすれば、十分にその機会を有し、また抑え得る地位にあったのであるから、実質的にも責任はまぬがれない」と唱えた。
一方これに対して東大法学部長の我妻栄氏、東大総長南原繁氏、島田孝一元早大総長、社会運動家佐野学氏らは「天皇に戦争責任はない」と反論。評論家亀井勝一郎氏は「大権政治なるものの実際は、大権の名における私権の運用であり、実権は、そのときどきの実際の行使者にあったことは明白である」とし、著書『陛下に捧ぐる書翰』で次のように自らの心情を披露している。
「私は、現陛下によって救われた身であることを第一に述べておかねばならぬ。終戦の御聖断がもしなかったならば、国内は戦場となり、国民の大半を死なしめたであろう。私はともかく生き残ったのだ。今日に生き得ている根拠は御聖断である。その恩義を私は感じている。生命を救われているうえ、救いを賜った陛下を嘲罵(ちょうば)し、その道徳的責任を云々することは、私の道徳的感覚が許さない。道徳的御責任を追及し、御退位を云々する人間の道徳的感受性を私は疑う」
このような天皇退位是非論が活発に交わされるなかで、いくつもの世論調査が行われたが、23年8月15日付『読売新聞』の調査は大きな反響を呼んだ。
◆問い
天皇制の存続をどう思うか
◆答え
あった方がいい…90.3%
なくした方がいい…4.0%
わからない…5.7%
◆問い
天皇退位をどう考えるか
◆答え
留位された方がいい…68.5%
皇太子に譲位された方がいい…18.4%
退位されて天皇制を廃した方がいい…4.0%
わからない…9.1%
また日本世論調査研究所が、国会議員に「退位の是非」を調査したところ次の結果が出た。
反対…83.1%
賛成…13.8%
不明…3.1%

言論人や法律学者や一部政党からは強い天皇制廃止の声があったが、国民の総意は天皇制を強く支持し、天皇ご退位に反対したのであった。陛下ご自身もまた、この問題について外人記者のインタビューを受けておられるが、「問題はデリケートだから意見を述べたくない」と語られている。
退位問題は、23年11月の東京裁判の判決前後にピークに達する。裁判が終わってのち、陛下は側近の人に次のように述べられた。
「退くことも責任を果たす一つの方法と思うが、むしろ留位して国民と慰め合い、励まし合って日本再建のため尽くすことが先祖に対し、国民に対し、またポツダム宣言の趣旨に沿うゆえんだと思う」
陛下のご胸中は、日本再建のために尽くすことが先祖と国民に対する責務であるとの深いご決意に満ちていた。翌年3月の国会開会式でも陛下は「日本国憲法の理想を心とし、民主主義に基づく文化国家建設の目的に向かってわたくしたちは、著々(ちゃくちゃく)歩みを進めています」と語られた。
2カ月後の昭和24年5月17日。「一人でも多くの国民に会って、慰め激励し、戦後日本の再建に努力してもらおう」との思いも新たに陛下は、お召し列車に乗られて東京をご出発になり、一路、九州へと向かわれた。
文化国家・日本の建設のために陛下自らがお決めになったご巡幸の再開である――。





