トップ社会「昭和」の地で人生を開拓 開墾地の移住者たち ~山形編1~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

「昭和」の地で人生を開拓 開墾地の移住者たち ~山形編1~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
国鉄職員を激励したJR新庄駅。現在は山形新幹線の終着駅
国鉄職員を激励したJR新庄駅。現在は山形新幹線の終着駅

昭和22年8月15~17日

 大君をむかへまつらく 蔵王の山 鳥海の山 月讃の山           

 斎藤 茂吉

 天皇陛下は昭和22年8月15日、山形県入りされた。

 「あの日、あの時刻、ラジオを通じて流れる陛下のお声にペンとる手、鍬振る腕で顔を掩い百三十万県民ひとしく祖国敗戦を泣いた日が、……めぐってきた。しかもこの日この時刻、陛下をお迎えし、共に再建第三年への巨歩を歩み出すことができるとは何という奇しき因縁、またわれら県民にとって何たる喜びであろうか」と、『山形新聞』は陛下のご来県を歓迎した。

 この日、陛下は飽海郡荒瀬指導農場、酒田市、大泉村、松ケ岡開墾地などを視察されたが、上田村役場2階でのこ昼食中、女子青年団350人が路上で県民歌「最上川」を奉唱申しあげると、陛下は窓辺までお立ちになり優しくほほえまれるという場面も見られた。

山形県の地図

 2日目。新庄駅で国鉄職員を激励され、引き揚げ者の新生寮では「よく帰ってくれたね。日本再建のため明るい気持ちでがんばりましょうね」とお声をかけられた。

 萩野村開墾地にお着きになったのは午前11時45分。かつて軍馬補充部用地だったこの地で大正14年、自治講習所所長、加藤寛治氏が拓殖精神講習会を開催し、青年に畑作経営を指導。同年10月14日、当時皇太子殿下だった陛下がこの地をお訪ねになった折、「今後どうするつもりか」とのご下問に、加藤氏は「立派に開墾し、模範部落をつくる覚悟です」と申しあげた。これを機に、県は行啓の光栄を永久に記念すべく開拓事業を決定、名称も「行啓記念県営萩野開墾地」としたのである。

 翌年、加藤所長の助手をしていた高橋猪一氏が県嘱託、萩野開墾委員を命じられた。県下の各農村の二、三男が1人、2人と、その村を代表するかのように集まって来た。そして、元号が改まるに伴い、土地の字名も「大字昭和」と改称した。

 昭和2年春に16人が移住したのを皮切りに6年までに計77人が移住。以来、高橋氏は指導者として10余年間、慈父のように慕われながら青隼と起居をともにし、質実剛健な昭和独特の精神の基礎を固めていつたのである。当時、国民の8割が農業に従事していた。だが、二、三男は働こうにも土地がない。国が二、三男対策の一つとしてこうした開墾地に力を入れたのである。

 石塚喜一氏(当時22歳)も農家の二男だったが、加藤所長に魅せられて初年度にここへ移住して来た。

 《毎朝、水ごりと体操をし、礼拝をしました。「神を愛し、人を愛し…」とよく言われたものだ。先生は、金も地位も名誉もいらない、ただ日本の教育こそ大切だ、と常に強調されていました。学校へ行かない人が農業にたずさわるという風潮が強いあのころ、「農業に従事する君たちは農業以外の人びとの命を預かっている。これほど貴重な仕事はない。これこそ国家のためのものである」と私たちを励まし教育してくださいましてね》

 麦3分、陸稲7分のご飯にふきのとうの葉か野菜のみそ汁がそれぞれ一杯という食事だった。ときどき、水稲も。

 《あの「おしん」なんて、とんでもない。あれは中流家庭以上の生活だったな。先生は困苦欠乏に耐えられねば、落後者だといつも私たちを叱咤されたな》

 一戸ごとに、五町歩の耕地と薪炭材用地として三町六畝の山林原野が分譲された。

 もちろん一人ではこれだけの土地を耕すことはできない。みな独身者だったが、1年後には見合いをし、結婚。だが各自がばらばらで式を挙げたのではない。当時の篠原知事夫妻などが媒酌人となって合同結婚式が毎年春に行われた。

 この地に昭和3年8月、朝香宮殿下が、11年10月には秩父宮殿下ならびに同妃殿下が、18年6月には北白川宮大妃殿下が、そして陛下が23年ぶりにお訪ねになったのである。

 とうもろこし、ばれいしょ、かぼちゃ、なたねなどの耕作作業の実況、そして移住者家庭の生活ぶりをご視察、昭和部落の人たちの前では、「物資不足で困らないかね」「天候の不順や肥料の不足で難儀だろうが、食糧増産にどうかがんばってもらいたいものだね」と励まされた。

 昭和有畜農業実行組合(現在の昭和農協)の事務や農協参事を24年にわたって務め、農家の世話をしてきた大浦忠太氏(78)は、懐かしげに当時を回想する。

 《こんな山村さ、よく来ていただいたものだと感謝感激でしたね。皇族の方がたからいろいろと目をかけられ、激励されたので、農家の方でも緊張し、貧乏しながらも、くじけちゃいけない、とがんばったな》

 石塚氏の場合、この感慨はさらに深い。

 《神様のように崇拝したもんだな。あの時代、「銀難汝を玉にする」と教えられ、決して銀難に負けないで国民の命を預かる仕事に誇りと希望をもって生きてきましたよ》

 一戸当たりの年間総収入が20年代後半60万円、37年度82万円だったのが、56年には一気に1119万円に急上昇。石塚家の場合、約2000万円という。

 現在、「昭和」地区にある84戸はみな農業にいそしんでいる。60年前、加藤氏の唱えた「理想農村」は見事に結実したと言っていいだろう。

 80歳になった今日も、石塚氏は午前4時半には起床、牛舎で約3時間は手伝う。日中はとうふがらを集める作業を行う。その一方で、130人の会員からなる老人クラブ「弥栄会」の会長を務め、交流の場作りに精を出す。

 《人生に、悔いはなかったな。今日の健康も、昭和の初めのあのころの生活のおかげ、と感謝していますよ》

 だが、石塚氏ら初年度に入植した16人のうち、すでに11人がこの世にいない。

 「昭和」の地で、昭和という時代とともに、自らの人生をも開拓してきた男たち。彼らの苦労の末に整えられた時代の恩恵の上に、次の世代は新たな一歩を刻もうと努めている。

【ご巡幸メモ】

 山形県西村山郡連合青年団では天皇陛下巡幸記念として男女千余人の団員が各自、米を節約して1人5勺ずつを持ち寄り計12俵半を傷病兵の病院と孤児院に寄付することを決定した。

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