トップ社会最後の空襲から復旧 秋田製油所、大きな励みに ~秋田編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

最後の空襲から復旧 秋田製油所、大きな励みに ~秋田編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
終戦間際の昭和20年8月14日の夜、土崎港(現秋田港)の工場群は、最後の空襲を受けたがいまは、その面影を残すものは無い
終戦間際の昭和20年8月14日の夜、土崎港(現秋田港)の工場群は、最後の空襲を受けたがいまは、その面影を残すものは無い
秋田県_北秋田市、潟上市、秋田市、現湯沢市の地図

昭和22年8月12~15日

 東京・杉並区井草の自宅で守屋専助氏(84)は、記者の前にバラの花をあしらったベージュ色のアルバムを差し出した。扉のページをあけると、「昭和二十二年八月十三日」と記されてある。天皇陛下が、秋田市土崎港町の日本石油秋田製油所を視察された際の記念写真集である。

 その日から、2年前の昭和20年8月14日、日本政府はポツダム宣言受諾を連合国に通告。だが不幸にも、日石秋田製油所を中心とする土崎爆撃は、この通告から数時間後の午後10時25分ごろから開始されたのだった。なまぬるいだし(南東の風)がその夜は、吹いていた。昔から、だしのかぜは土崎にとって鬼門とされ、大火は決まってこの日に起きたという。人びとが暑くるしい眠りについてまもなく、突如、空襲警報が鳴り響き、直後に起きた大爆発音で驚いた住民は戸外に飛び出した。

 B29は西南上空から侵入、第1弾は秋田製油所内の事務所で炸裂。2、3発続いて落とされ、プロパンボンベが爆発。これにより、社員3人が殉職、控所に宿泊中の軍人約50人がほとんど死傷した。この爆撃は、だが、偵察と目標を定めるためのものであった。約30分後、本格的爆撃が始まり、息つくひまもない連続波状爆撃は、翌15日午前3時半ごろまで続けられた。大東亜戦争最後の空襲であった。このときのB29の数はのべ二百数十機と目され、投下された爆弾は2000発を超えた。当時の模様を、秋田製油所編『復興史』は次のように伝えている。

 「瞬時にして構内は一箇の灼熱のルツボと化し、燃えさかる油は構内を満たして、隣接する社宅の方面に向かって火の激流となって流れた。秋田県におけるただ一カ所の被爆地、しかも当製油所にのみ集中されたこの時の炸裂音は、遠く70キロメートルを距てた横手地方の家屋の障子をもゆさぶり、大火災による雲焼けが毎夜この地方からも眺められ、燃え続ける火がようやく消え落ちるまでには1週間以上もかかった程であった」

 前の月、1万キロリットル原油処理を行った精製工場の87%、貯蔵設備の70%が破壊された。製油所の社員7人、工員17人が殉職。19人が負傷した。

 ぼう然自失となりがちな心を励まし合い、同僚の遺体を探し求める従業員の前に、敗戦を告げる玉音放送が流れた―。

 「すでに、こと絶えた子どもを背にして、傷つき逃げさまよう母親があり、一塊の肉片と認印を残し殉職した者があり、あるいは、この日ちょうど帰省した一女学生が社宅にたどりついてみれば、すでに訪ねる人の姿はなく、その翌日は父母兄弟全家族の遺骨を悲しく抱いて立去る等々。助かった者はただ奇蹟のあることを信ずるのみ、絶望と虚無の間を彷復するばかりであった」 (『復興史』より)

 秋田製油所の戦後は、殉職者と従業員家族犠牲者の社葬から始まる。不安と焦燥、虚脱から抜け出すには、まず働くことだった。製造能力のない工場は、進駐軍によって撤去される可能性が強かった。本社では、万難を排して秋田製油所を再興する決定を下した。速やかに復旧工事にとりかかり、原油割当量を確保、処理することが最大の急務であった。しかし従業員整理は避けられず、736人中315人が退職したのである。

 復興建設工事の中心は、何よりNNL(第一)蒸留装置の復旧であったが、全従業員は正月を返上して、工事に励んだ。夜を徹しての突貫工事が行われたが、無理の多い難作業で、油漏れやポンプの不調、海水ポンプ室取り入れ口が土砂に埋没するなど、しばしば運転不能に陥った。守屋氏は、軍属として南方のパレンバンで製油の仕事に従事し、21年5月に帰国。7月、秋田製油所に赴任し所長として、復興工事を引き継ぐことになる。そのころようやくNNL蒸留装置は復旧したが、工事を急いだために漏えい個所は意外に多かった。さらに蒸留開始の段階で、なかなか油がトレイから流れ出ない。2カ月半もそうした状態が続いたが、守屋所長はじめ職員の数日にわたる調査で原因を究明。11月10日、念願の運転再開へとこぎつけたのである。

 陛下がこの地をお訪ねになったころ、原油処理能力年間20万キロリットルという戦前と同じレベルにまで復興していた。

 陛下は佐々木社長に「石油は大切なものであるから、よく勉強して頑張ってほしい」と語られた。守屋所長のご案内で構内の復興状況をご覧になり、幹部、従業員を激励、殉職者の未亡人や戦災者遺族に慰めのお言葉をかけられた。

 《当時、進駐軍は号令をかけての「万歳!」を禁止していましたが、従業員のなかからは自然と「天皇陛下万歳!」の歓声がおこりましてね。それは進駐軍もとめませんでしたよ。みな喜んだ、感激したね。大きな励みとなりました》

 その後、一時期は秋田製油所への原油配分停止というハプニングも起きるが、復興事業は順調に進み、製油能力も年々上昇し、日本の高度成長の一翼を担うのである。45年からは現在の日本石油加工秋田事業所となり、油槽所となっている。

 守屋氏は10年近く秋田に滞在し、35年には東京に戻り、取締役を最後に退社。それから七年、日石加工株式会社の初代社長をつとめ昭和42年、退職している。陛下より一歳年上の守屋氏に、ドラマチックな人生の感慨をたずねると、

 《明治大帝、大正天皇、今上天皇と三代の天皇におつかえした、という感じですね。いや本当は三代の陛下につかえたいという思いとでもいうのでしょうか。具体的にどうこうというのではありません。ただ、陛下がご存命中は私は死にたくない、死ねない、という思いは強いですね》

 明治30年代に生をうけた日本人には、あえてその理由を問われても答えることのできない、陛下とのこうした一体感、連帯感がある。

【ご巡幸メモ】

 乳幼児や老人の世話をする秋田市内の聖心愛子会では公然と国旗を掲揚し、室内にも多くの日の丸の小旗が飾られていた。大金益次郎侍従長は「(当時は)何とはなしに国旗を出すことを遠慮するような一種卑屈な心持にわが国民は成り下がっていたと信じる。その中にあって平然たるこの態度を見せられた時われわれは心中恥ずかしさに堪えなかった」と回想している。

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