トップ社会満州の苦労乗り越えて 秋田の引き揚げ家族 ~青森、秋田編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

満州の苦労乗り越えて 秋田の引き揚げ家族 ~青森、秋田編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
昭和天皇のご巡幸の疲れ癒すため、弘前市民などが夏の風物詩ネブタを披露した
昭和天皇のご巡幸の疲れ癒すため、弘前市民などが夏の風物詩ネブタを披露した

青森 昭和22年8月10~12日

秋田 同8月12~15日

天皇陛下は昭和22年8月10日午後、岩手県から青森県三戸郡舘村にお着きになった。県下の優良馬22頭をご覧になったあと、同村の農家、田村太蔵氏の家にお入りになり、人と馬との一緒の生活を興味深くご視察。

青森県_三戸町(旧-三戸郡上長苗代村、舘村)、青森市、浪岡町、弘前市、弘前市の地図

翌日、八戸魚市場、青森市の連絡船桟橋、戦災地跡、りんご試験場、国立弘前病院などをお訪ねになり、激励し、慰問された。暑さは夜になってもおさまらず、ご宿所となった公会堂に浴場はなく、大がめの水でお体をふかれた。そのような陛下の旅のお疲れをお慰めしようと、県民は弘前名物のネブタを披露。陛下は公会堂2階貴賓室の窓から、しばし東北の風情をお楽しみになった――。

12日、陛下は「君が代」が流れる秋田駅前広場で市民の大歓迎を受けられ、まっすぐ引き揚げ者の住む市営住宅へ。ぷんとかび臭いにおい、陛下の足元にはすすけたカマドが転がっている。

秋田県_北秋田市、潟上市、秋田市、現湯沢市の地図

満州の安東から引き揚げて来た東海林正治氏 (当時31歳)に、陛下は語りかけられた。

「引き揚げのときは相当苦労されただろうね」

「はい苦労しました」

「苦しいでしょうが、がんばってください」

このとき、東海林氏夫妻の脳裏には、満州に渡ってからの苦労の日々が、走馬灯のごとく浮かびあがった。

由利郡大内町生まれの東海林氏は、昭和12年11月、満鉄の入社試験を受けて合格。翌年1月中旬、秋田を船でたった。21歳だった。新天地で奉天・橋頭駅での駅勤務についた。

雑役に始まり、小荷物係、庶務係と変わった。

昭和17年、車掌となり安東列車区勤務を命じられ、安東―奉天間約500キロを往復した。

この年、東海林氏は見合い写真を内地に送った。背広姿でほっそりとした写真と、心持ちがっちりと太った写真の2枚を仲人は、田舎で看護婦をしていたまつのさん(当時24歳)に見せた。そして翌年4月結婚――。4月29日、下関から関釜連絡船で中国大陸へ向かうとき、天長節(天皇お誕生日)を祝う国旗が掲揚され、妻は新しい人生の門出を祝福してくれていると感じたのだった。

安東の満鉄社宅は、下4軒、上4軒のレンガ造りの社宅が47棟。8畳、6畳、3畳、そして食器ダナがあって、ほかに、家具・食器らしいものもなかった。

満州も物は配給制となり、灯火管制に入っていた。それまで和服の着物だった服装が、モンペに義務づけられたことも、若い妻を寂しがらせたようである。

翌19年、長男の晃くん出産。翌年10月、二男の勉くんが誕生。だが育児に追われていた日々は敗戦で一気に大混乱へ。八路軍、ソ連兵が日本女性を、からかったり襲ったりする場面があちこちで展開された。

駅長、助役など多くの上役が、中国人によってクビになり、売り食い生活を余儀なくされた。列車を動かすのに必要な最低限の要員だけが残されたが、幸い東海林氏はその要員に含まれた。満鉄は中国共産党の経営下におかれた。さらに、一家族用の社宅に3世帯がつめ込まれた。

《食べるのも寝るのも一緒。もう生きていくだけで精いっぱいでした》

《一緒にいた佐賀県の家族は、給料はもらっていたが三度三度ご飯を食べるのはもったいないと、とうもろこしの粉で作ったポーミーパンを食べていました。それで2歳の娘さんが消化不良を起こして、そのまま回復せず、亡くなってしまいました…》

東海林氏宅の隣に、ソ連兵3人が住みついた。消毒用のアルコールを薄めたのを無理に飲まされ、吐いた。死ぬかも知れない、と思うほどに苦しんだ。

生活は窮乏し、難民に近い状況になりつつあった。約170人の日本入が、中国側と帰国の交渉をしたのは21年の8月下旬。ようやく認められたが、安東から博多までの40日間ものつらい旅を強いられた。道中、行きつくまま倒れ込むようにして土間、馬小屋、駅構内、工場跡に所かまわず休んだ。それも見あたらない所では、何度も野宿した。

秋田に戻り、21年暮れに東海林氏は東北肥料株式会社に入社。翌年5月、ようやく市内に引き揚げ者寮の一間を得た。引っ越しといっても、何もなかった。かけぶとんを横にして、親子で寝た。10畳1間の〝家〟。隣の家とは1センチもない杉の板で仕切られただけだった。

《引き揚げ者だもの、特に恥ずかしいとは思わなかった。よし、これからわが家の経済再建だわ、とね。でもまさか、そんな私たちの前に雲の上のようなお方が、じきじきお見えになるとは想像もできませんでした》

私たちにもこうして陛下がお言葉をかけてくださるのか、と思うとうれしくてたまらなかった。しかし、その思いは言葉にはならなかった――。

《陛下から、がんばってと言われて、がんばらなければと……》

東海林氏は、昭和28年から、月々の給料の額をひかえている。それは、次のように昇っていく。800円(昭和22年)、1万7000円(28年)、2万4000円(30年)、3万3000円(35年)、4万9000円(40年)、10万4000円(45年)、14万2000円(50年)。

まつのさんも働いた。34年から保険会社に19年勤めた。

《保険会社は2、3カ月でやめる人が多かった。自分も周囲からそう見られた。だから人から笑われず、やり始めた以上はやり通そうと決めたの。吹雪の日などかえって私は闘志を燃やしたわ。みんなが苦労をねぎらってくれるもの。いつか、この天候も晴れると思い、がんばったわ》

正治氏も「みんなのおかげで、よくやってこれたな。健康であったことが何よりです」と。東海林氏の世代はだれもが、懸命に生き、子育てに全力を傾けた。生きることが、今ほどにたやすくはなかった。

【ご巡幸メモ】

陛下は煙草(たばこ)をお吸いにならず、また酒もお飲みにならない。巡幸中は毎朝7時に起床され、安全カミソリで自らひげをおそりになる。鈴木行幸主務官は、「自らひげをおそりになるため、ときにひげを誤ってそり落とすこともあるそうです」と陛下のささやかな〝失敗談〟を披露している。

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