

昭和22年8月7~10日
その年、7月の水害に見舞われた東北は、農作、木工、交通などさまざまな方面に被害を受けた。「水害で一段と食糧事情も悪化し、なお献上の品々なども被害のため予定のごとくいかず、万事お旅情を慰め申すのに十分ではあるまい」――純朴な県民は陛下に対し、どれだけ遺憾に思っているか知れない、と『新岩手日報』は当時の県民の心情を伝えている。

そのような事情で、県としては宮古、釜石方面のご巡幸は困難だろうと初めから陛下のご視察地からはずしていた。だが、一人でも多くの人たちに会って激励したい、との陛下のご意向を汲(く)んだ宮内庁の積極的指導でようやく実現したのであった。昭和22年8月7日、岩手県入りされた陛下は、翌日午前7時に小岩井の宿舎を出られ、宮古へ。途中、通過する駅構内で薪を背負った女性や、炭焼き作業場から駆けつけた夫婦などがお迎えする姿に、陛下は車窓から深く会釈された。
宮古では魚市場に行かれ、「宮古丸」にお乗りになって船員を励まされ、折から水揚げされたばかりの生き生きとした魚をご覧になった。そして釜石に向かう車中でご昼食をとられ、午後2時に釜石着、再建に奮闘する釜石製鉄所をお訪ねになった。
昭和20年7、8月の2回、釜石市は沖合からの艦砲射撃と空襲で計4000発もの砲爆弾を浴び、うち6割が工場内に炸裂(さくれつ)した。工場の鉄骨は焼け、煙突は半分に折れ、鉄くずの山が四方八方に散乱。1万4000を超える従業員のうち約200人が死亡、500人以上が負傷したのであった――。
工場前に整列する戦死者遺族350人、戦災者300人の前を、陛下は優しいまなざしで丁寧に会釈されながら、お声をかけられた。
「だれがあとで働いているの、元気を出してやってください。お互いにがんばりましょうね」とおっしゃり、涙ぐんでいるご様子だった。そして、従業員へのご下問でも注目されたのは、「苦しいだろうが再建日本のためお互いにやろうね」「お互いにひどかろうがしっかりやってくださいね」との励ましのお言葉である。
ただ国民にのみ再建のためにがんばれ、と言われているのではない。「私もこの辛苦に耐えて、再建のために努力するから、皆さんも――」という切なるご心情が、こうした語りかけになったのではなかろうか。
陛下は再び列車にお乗りになり、釜石―宮古―盛岡へと帰路につかれた。盛岡には夜の7時すぎのご到着となる。1日行程としては、かつてこうした夜間列車はなかった。しかも、この山田線はトンネルが72もあり、煤煙(ばいえん)が車内に立ちこめて顔やシャツをまっ黒にするため〝からす列車〟の異名さえあるほど、運転業務にたずさわる人びとを泣かせる路線である。
この「陰の花形」ともいうべき、お召し列車の機関士に松田正氏(当時22歳)、指導機関士に沼田廣治氏(当時40歳)が選ばれた。
「小さいころから機関車に乗りたかった」という松田氏は、15歳で宮古機関区に就職、19歳で機関士となった。徴兵検査は乙種合格。20年9月15日から、千葉県津田沼の鉄道連隊に入隊の予定だったが、1カ月前に敗戦。
その松田氏が、技量ならびに勤務成績最優秀で、お召し列車の機関士に選抜された。当時、宮古にいた機関士数は約40人、そのなかで最も若い松田氏が選ばれたのである。
《機関士としては新米でした。盛岡管理部(現管理局)からは「少し若すぎるのではないか」と言ってきましたが、宮古機関区の大沢為八指導助役が「大丈夫だ」と後押ししてくださって…。非常に光栄でした》
お召し列車と補助機関車の乗務員は松田氏を含む計6人。彼らは半月の間、毎日2回ずつ、盛岡―宮古間の運転訓練を行った。
《一番気をつかったのは、陛下に衝撃を与えないこと、また列車の停止位置ですね。もちろん決められた時間で運転しなければいけない。1分、早すぎても遅すぎてもいけない。大変だったけど、やりがいがありました》
水の補給で途中停車した平津戸駅では、機関助手の井上廣治氏(当時21歳)が水を飲もうとして目がくらんで卒倒してしまった。何しろ機関車内は130度にも温度が昇り、連日の練習の疲れもあったためだろう。だがこうした努力のかいあって、列車は盛岡駅に定められた時刻に指定の位置に何の衝撃もなく静かに止まった。「ぴったりだった」と松田氏はうれしそうに話す。
宮古駅では一般の人びとに交じってお迎えした。自然に頭が下がって、「万歳」を叫んだ。
《とても心強く感じました。終戦から2年目のあのころ、まだ世の中がさっぱり落ち着かない状況にあったが陛下がお見えになったことにより、気持ちの落ち着きを覚えました。変わらない日本の姿を見たような気がしました》
お召し列車の乗務に際し、機関区長から各家庭に、本人が心配や休養不足で思わぬ事故の起きぬようにやさしい援助をお願いしたい、との手紙が届けられている。
沼田氏の妻、ハルヨさん(72)も、
《日中に帰宅しても家を静かにし安眠できるように、黒いカーテンで暗くして眠れるようにとの指示を受けました》
と言う。子供の泣き声ひとつにも注意を払った。これは、お召し列車のときだけに限ったことではもちろんない。
松田氏、沼田氏ともに国鉄に39年勤務した。家族のこまやかな配慮に支えられ、彼らの世代こそ、世界にその名を響かせた日本の国鉄の〝黄金時代〟を築いたのである。
【ご巡幸メモ】
「新岩手日報」の記者が、「人間天皇としての今度の旅行はまだ侍従たちが神格化しているのではないか」とたずねたのに対し鈴木菊男行幸主務官は次のように答えている。「人間天皇だと申し上げているが、天皇が神聖であることは戦前戦後変わりなく人格的にも完成されておられる。ご巡幸の態度でおわかりの事と思う」





