

昭和22年8月5~7日
昭和20年5月25日、皇居の宮殿が焼失した。
宮城は、美術・史跡保護のため、米軍の爆撃除外リストに含まれていたため一発も投弾されなかった。しかし5月25日夜の空襲で、皇居周辺の永田町、霞が関一帯は〝火の海〟と化し、それが皇居内へ飛び火したのである。

懸命の消火活動にもかかわらず、宮殿は、総建坪6320坪のうち5527坪が焼け落ちた。端正雄大な宮殿は、礎石、玉石、れんがが至る所に散乱し、廃虚と化した。
そして、終戦……。
皇居の各門には、占領軍の歩哨が立ち、二重橋前の10万坪の広場は荒れ放題。街灯は消え、芝生は伸びるままに任せた。米兵と手を組むパンパンや、日本人同士のアベックが楠(くすのき)公銅像の周りを行き交い、かつての〝日本の聖地〟の面影はなかった。
陛下は依然として、「御文庫」と言われた防空壕(ごう)住まいだった。
この東京から北へ400キロの宮城県栗原郡。いまでこそ新幹線で2時間余りで行けるが、当時は12時間かかった。戦争も終わり、この地へも若者がぞくぞくと帰って来た。皆等しく、敗戦による虚脱状態と占領下での進退の不安にかられていた。
一迫(いちはさま)町の青年団では、毎晩、「郷土を明るくするにはどうしたらよいか」「祖国復興をいかにすべきか」の話が尽きなかった。そこへ東京から戻った郷土出身の鈴木徳一氏(故人)、長谷川峻(たかし)氏(衆議院議員)が、皇居の荒廃ぶりを説き、清掃奉仕の話を持ちかけた。たちまち郡内の各町村から、60人以上の青年男女が参加を申し出た。「われわれにできる草刈りとか、清掃でよいなら、ぜひともお手伝いしたかった」と参加者は当時の心境を回想する。
占領軍の支配下にあって、「天皇のために働いたら検挙されるかもしれない」という不安もあった。だが、自分の身を案ずるより陛下を「もぞい(いたわしい)」と思う気持ちが強かった。女性のなかには、親兄弟と「水盃」をかわして、決死の覚悟で出発した者までいた。
総勢62人。ほとんどが20歳代の青年たちだった。12月6日、上京の日が来た。現金50円と、リュックに米3升、野菜、みそ、しょうゆ、薪を詰め、ナタとカマを手に、殺人的な満員列車に乗り込んだ。
また陛下への献上のおもちを持った。1戸盃(さかずき)1杯のもち米を出し合ってつき、神主のお祓(はら)いを受けた。それを木箱に詰め、白紙をかけ、上半分に「上」、下に「みくに奉仕団」と墨で書いた。そして大東亜戦争記念日となった12月8日、〝草刈り隊〟は、MPが並ぶ坂下門をくぐった。空には、P38戦闘機がさかんに飛んでいた。戦争が終わってまだ4カ月もたっていなかった。
だが検挙どころか、作業現場に陛下が来られた。
「遠いところを来てくれて、ありがとう。郷土の稲の具合はどうだったか」
「肥料は手に入るか」
「一番不自由なものは何か」
「国家再建のため、しっかりやってほしい」
〝現人神〟としての天皇陛下の、最初で最後の国民との対話であった。実に21年元日、天皇陛下が「人間宣言」をされる24日前のことである。
陛下のお帰りになるうしろ姿を拝した団員から、当時GHQによって歌うことを禁止されていた「君が代」がほとばしり出た。陛下は、歩みを止められ、歌の終わるまで不動の姿勢をとられた。「君が代」はいつしか鳴咽の声に変わっていた。
しばらくして皇后さまもお見えになった。
陛下は、このときのご感動を後日、御製にお詠みになっている。
戦ひにやぶれしのちのいまもなほ民のよりきてここに草とる
こうして団員は、感激に満ちるなか、皇居付近には泊まるところもないままに、20キロほど離れた調布市国領町から3日間、手弁当で通ったのだった。
最終日、団員一人ひとりは皇居の草を固く握りしめた。
「この草をたい肥の中心にして皇室と国民をつなぐ精神的な糧とし、このたい肥を基に食料増産したい」
これに端を発して、2次、3次と栗原郡から皇室清掃奉仕団が出発することになる。昭和22年8月7日、今度は、陛下を同郡の築館町にお迎えした。
そのころには、「みくに奉仕団」の参加者も延べ800人を数えるようになっており、奉迎場の薬師公園の熱気もほかとひときわ違っていた。郡内の各町村からは、午前2時、3時ごろとまだ夜も明けぬうちから山を越えて駆けつけて来た者もいた。陛下も、1時間余りにわたってこの地に足を踏みとどめられた。
千葉徳穂氏(60)は言う……。
《錦のカーテンのべールを隔てて、国民と遊離して生活しておられたのが、国民のなかへ溶け込まれたのです。そういう意味で、昭和22年のご巡幸時の陛下と国民の結びつきは、最高潮でしたよね。またいつのまにか遠のいてしまわれたようで、さみしい感じがします》
ご巡幸の終わった今、栗原郡の「みくに奉仕団」に端を発する皇居清掃奉仕は、陛下と一般国民の接する絶好の場となった。「親皇室的な人々を親から子へ、老いから若きへと全国的な広がりで育て上げている点、皇居清掃奉仕団は天皇制の将来に、大きく貢献することだろう」と河原敏明氏は『天皇裕仁の昭和史』のなかで語っている。
40年たった今、皇居清掃奉仕の参加人数は、すでに延べ100万人に近い。申し込んでも、半年ぐらいたたないと実現しない。
今年(昭和60年)12月8日、40周年を記念して第1回「みくに奉仕団」のメンバーは、皇居奉仕に上る計画を進めている。
【ご巡幸メモ】
昭和22年8月6日、東北ご巡幸の第2夜。陛下は古川女学校の教室で休まれた。朝8時から10時間、仙台市内をはじめ塩釜、石巻、女川とお回りになった陛下は、お疲れのお体を、風呂設備のないこのお泊所で、用意されたたらいの水でお拭きになった。





