【世界日報創刊50年企画、連載・書籍化40年 昭和天皇巡幸 復刻へ】3
| ―福島県・常磐炭田 |


昭和22年8月5、17~19日
昭和22年8月。本格的な暑さは、ピークに達しようとしていた。宮内庁が関西に続いて行幸先と予定していた東北地方は7月、福島を除いて大水害に見舞われ、橋や道路などが破損した。
天皇陛下の周囲からは、「この暑さを避け、また災害復旧後の秋ごろにお訪ねになっては…」との意見もあったが、陛下は「被災地を見舞い、また多く収穫してもらうよう農民を激励したい」と述べられ、「場合によれば草鮭(わらじ)ばきでもゴム長でも現地の御視察を願ふ決心であつた」(当時の侍従長、大金益次郎著『巡幸餘芳』) という。

陛下は15日間にわたる東北ご巡幸の第一歩を福島・湯本駅にしるされた。この日、8月5日付の地元県紙『福島民報』は「陛下奉迎」と題する社説で、「天皇陛下を迎えて、早くまた一人前の国として立派に民主日本の再建をなしとげようとの誓いが国民の間に生まれる可能性が大いにあるとしたらこれくらい意味のあることはない」とご巡幸の意義を高く評したのである。
戦後日本の復興の要は食糧と石炭の増産だった。しかし戦時中の強行出炭により炭鉱は荒廃状態と化し、労働力の不足や食糧難のため増産できる環境ではなかったという。政府は中央に石炭庁を、地方には臨時に石炭増産本部を設けて石炭増産対策を進めていた――。
麦わら帽子にねずみ色の背広姿の陛下は湯本駅に降りられ、「万歳」の歓声のなか、常磐炭鉱磐城鉱業所にご到着。大貫社長から炭鉱事情をお聞きになり、第五、六坑へと進まれた。緊張した面持ちでお迎えの列に並ぶ一人に、庶務課長、飯島隆俊氏 (当時40歳) の姿があった。
昭和3年に早稲田大学専門部を卒業し、常磐炭鉱の前身に入社。3度、応召されながら、3度とも還(かえ)って来た。いわゆる不加充要員として、銃後の守りを担ったのである。明治生まれの飯島氏が間近に陛下を拝するのは、もちろんこれが初めてだった。
《当時の日本人にとって、陛下は神格化されていましたが、その陛下が自分から〝人間〟になって来られたから、おれたち驚いたなー。日本の平和産業の振興のため、わざわざこんな所まで来られるなんて、まさに恐懼(きょうく)感激せざるを得ませんでした》
第六坑口進発所では労組幹部ら約200人がお迎えした。陛下は最前列の三森鉄一郎氏に「食糧その他いろいろ不自由なものが多いだろうね」とお尋ねになると、三森氏は鳴咽(おえつ)するように「いいえ…別に…」と申し上げたきり、顔を伏せてしまった。陛下は重ねて、「石炭は大切だから、どうか増産のためにがんばってください」とおっしゃると、三森氏に代わって隣にいた高野一郎氏が、「日本再建のため一生懸命やります」と誓うようにお答えした。
午後0時40分すぎ、陛下は毎日何度も入坑する坑夫たちが腰かける人車に腰をおろされた。人車は汽車の下り勾配よりも少し遅いスピードで地下に下りて行った。坑特有の湧出する熱湯を地上に吸い上げる四つの太い管が、左右にどこまでも走っていた。初め高かった穴の天井も次第に低くなり、陛下のお帽子が、ときには天井の電線にすれすれになることさえあった。
地下450メートル。切り羽のあたりは62度にも上り、坑夫たちは全裸で始終、通風していても汗が止めどなく流れてしまう。陛下には切り羽の手前、気温40度強の第四炭層に新しい切り羽を作ってお目にかけることになっていた。
ここでも200人の坑夫代表が赤銅色のたくましい体に緊張感をにじませながら、お待ちした。
坂本徳治氏(当時35歳)の世代は、多く戦争で死んでいる。だが、「召集令状を受けとることが、すなわち、死であるとは考えていなかった。イヤだ、と拒否することは百パーセントなかった。テレビドラマ『おしん』見たけど、召集に反対する、あんな場面は実際はなかった」と言う坂本氏。
部下百数十人をあずかる採炭係として、陛下のご下問にあずかった。
「食糧はどうですか」
「はい、大丈夫です。がんばります」
《背広姿で暑いだろうな、ご苦労さまだなあと思った。当時、「日本の再建は石炭から」が合言葉だった。会社のため、自分たちのためにがんばるのが、結局、国や陛下のためになると思う。それにしても陛下が坑内に下りられるとは、夢にも考えていませんでした》
『福島民報』の記者は、坑夫たちの感激しきった横顔を見つめながら、出勤率七十数%、3千万トン出炭の達成率80%未満の現状は打開されるだろう、と実感したという。実際、飯島氏は、《その後、出炭率は5割近くアップしたように記憶しています。陛下のおかげ、としか言いようがないね》と述懐する。
翌23年には、政府から石炭増産で表彰された。
常磐炭田は、最盛期には95キロメートルの範囲に100余りの炭坑が存在して本州最大の埋蔵量を持ち、戦後の経済復興に大きく貢献した。だが、石炭から石油へのエネルギー革命で炭鉱の多くが閉山に追い込まれ、昭和51年、125年の歴史を持つ常磐炭田もその幕をおろした。
湯本駅近くに、炭鉱の歴史、採炭の仕組みや器材、また実物大の人形で採炭作業の様子が一目でわかる「いわき市石炭・化石館」がある。玄関の左側に、ご巡幸の感想を詠まれた御製(ぎょせい)が彫り込まれている。
あつさつよき磐城の里の炭山にはたらく人ををゝしとぞ見し
裏へ回ると、常磐炭鉱殉職者のためのりっぱな慰霊碑が立っている。人数は定かでない。「たくさんの御霊」としか記されていない。だがそれはまぎれもなく、わが国の産業発展の基幹を担った雄々しい男たちの墓標である。
【ご巡幸メモ】
8月5日と17日から19日の2度にわけて陛下は福島県内をご視察。会津若松市生まれの前科6犯のYは、5月に宮城刑務所を出所後、大阪のある店からゴムぐつ30足(1300円)の売却を頼まれながらも着服したが18日、陛下のお姿に感激し前科を悔いて同日夕、若松署に自首したとの記事が地元紙に載っている。





