トップ社会とどろく「君が代」の大合唱 富山、5万人の赤誠 ~富山編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

とどろく「君が代」の大合唱 富山、5万人の赤誠 ~富山編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

復刻 昭和天皇巡幸
北陸巡幸最後の地となった富山。11月2日、熱烈な県民の声に送られて国鉄(現JR)富山駅から帰途についた
北陸ご巡幸最後の地となった富山。昭和22年11月2日、熱烈な県民の声に送られて国鉄(現JR)富山駅から帰途につかれた

昭和22年10月30日~11月2日

東に立山連峰を望む富山市布市(ぬのいち)は、有数の豪雪地帯である。軽く1メートルを越える雪が降る。記者が傷痍(しょうい)軍人の辻義直氏(69、当時)を訪ねたとき、「運が良かった、数日前までは大雪だった」と辻氏は語った。もう一つ幸運なことに、この季節雪などで、めったに姿を現さない立山が青空を背景に屹立(きつりつ)する姿を見ることができた。

昭和10年、辻氏は、富山の富士井部隊に入隊。第二機関銃隊に所属し、弾薬手を務める。満期除隊をあと半年で迎えるというときに、支那事変が勃発。現役兵として上海上陸作戦に加わる。

12年10月16日、中国宝山県唐北拓の戦闘で負傷。後頭部貫通銃創―これが辻氏の受けた傷だった。弾の破片が頭のなかに残り、その後、東京の陸軍病院で2年間治療、13年3月1日に富山陸軍病院へ転送された。退院は14年8月31日。両眼とも左側が見えない「両側半盲症」の後遺症が残った。そのため、戦時中は軍需工場で補助作業に従事、食糧難の終戦前には、会社所有の土地で野菜を作った。

その農作業に従事していたとき、「今日は特別放送があるから」と言われ、事務所のラジオで玉音放送を聞いた。思いもかけぬ終戦の詔勅を聞いたときの無念さ、残念さに断腸の思いがしたという。そのときの気持ちを「失望、落胆」とも表現する。が、「陛下のお言葉だから」と思い、情けない気持ちを抑えた。

戦後は、障害を持った元軍人には決して住みよい時代とはいえなかった。五体満足な者でさえ、生きていくのがつらい時代に「両側半盲症」などの障害を持った男にできる仕事など、タカが知れていた。傷痍軍人会の紹介でも「おうた仕事はなかった」。結局、辻氏は友人の紹介で、銀行の用務員を18年間務めた。

戦後は、超インフレの時代だった。21年2月15日、日銀は「ヤミ値の平均値段は公定価格の12倍」と発表したが、汽車・電車をはじめ、公共料金のたぐい自体が年に2度も3度も値上げされた。そんななかにあって、辻氏は天皇陛下とお会いする機会を得たのである。

昭和22年10月30日、天皇陛下は石川県金沢市で、第2回国民体育大会開会式にお臨みになった後、北陸路最後の富山県へ向かわれた。

お召し列車は倶利伽羅(くりから)のトンネルを抜けると、陽光をいっぱい受けた刈り取りを終えた田園風景の越中平野に入った。遠くには白銀に輝く立山連峰が望まれた。

富山市で最初の神通中学奉迎場に到着したのは、午後2時20分だった。5万を超える大群衆が、ご到着と同時に万歳と歓呼で陛下をお迎えした。そしてここでは、富中ブラスバンドが「君が代」を吹奏し、5万人の大合唱がうしおのように続いた。陛下はこの間じっと立ちつくされ、かすかにお顔をふられて拍子をとられた。

午後3時10分に辻氏の待つ堀川小学校にご到着。辻氏は、遺族や外地引き揚げ者に交じって、傷痍者の一人としてお迎えした。

陛下は辻氏の前で足をとめられた。

「どこで負傷せられましたか」「どういう病気か」「どういう様子ですか」「体が不自由でしょうが、がんばってください」

辻氏は感極まって「ありがとうございます」とだけ答えるのが精いっぱいだった。陛下のお顔がぼやけるほど涙がにじんだ―。

《大変お元気そうでした。元気はつらつとしておられた。立派なお姿でした。しかし、白馬に乗って指揮をとられた昔のお姿を思い出すと、お年をとられたという気はしました》

辻氏が、一生涯忘れられない印象を与えられた言葉が二つある。

一つは、後頭部貫通銃創の治療をしてくれた軍医の忠告だった。「干人が千人死んでいく傷を受けて、命があるのだから余命を社会に尽くすようにしないといかんぞ」

そして、もう一つが陛下のお言葉である。

《まさか、ご下問されるとは思っていなかった。一生に一度あるかないかのできごと。一生涯忘れられないですね。立派に生きなければならないと思いました》

辻氏はこれ以後、陛下と軍医の言葉を強くかみしめながら、どんな逆境になっても耐えてきたという。今では、その後、傷が悪化して2度手術したりで体も不自由だが、それでも余命を社会奉仕にささげたいと語る。

《陛下は今でも昔とあまり変わりませんね。もちろん、昔のようなはつらつとしたお元気はないでしょうけれども。陛下は昔からご苦労されてきましたから、お気の毒で、いとおしいなあという気持ちです。公式行事がたくさんあって、大変だと思います。天皇陛下はやはり昔と同じで、今でも神々しいですね》

30日の富山県民の歓迎ぶりについて、三井行幸主務官は地元紙『北日本新聞』記者の質問に次のように語っている。

「まだ何も承っていないが、工場内の奉迎者の多いのには私もおどろいた、陛下もさぞかしびっくりされたことでしょう。(略)いま一つ変わっていたことは小学生が日の丸の旗を振ってお迎えした数の多かったこと、地方巡幸で富山が一番でしたね」

22年11月2日、雨模様の雲の切れ間から茜(あかね)色のひかりが差すなか、汽笛と万歳の連呼につつまれて北陸ご巡幸を終えたお召し列車は、富山駅を離れた。

【ご巡幸メモ】

陛下は、富山県ご巡幸で高岡市、富山市、古江村、氷見(ひみ)漁港、笹津・敷島紡績、魚津駅などを回われた。このとき三井行幸主務官は、小さいお子さんを連れた方は、おんぶするか、だっこして奉迎していただきたいと語っている。というのは石川県ご巡幸のとき、熱狂した母親が子どもを忘れてしまったので、子どもが大人のかげに隠れてしまい、それに気づかれた陛下が、お車のなかで子どもたちにわかるように身をのりだされ、窓ガラスに4回も5回も頭をぶつけられたからだという。

※「昭和天皇巡幸」は、世界日報で連載(昭和60年1月2日~2月9日、4月1日~4月30日)され、世界日報で単行本化し、加筆修正して創芸社から出版されたものを転載しました。

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