
昭和22年10月26日~30日
加賀百万石の旧城下町で知られる金沢の街から、国鉄七尾線で約2時間、日本海に面した和倉温泉は、能登半島最大の温泉地として有名である。約1200年前に開湯したともいわれ、古くから知られている。

和倉温泉駅から車で約10分の奥原町は田園地帯にある。そこに住む奥山久一氏は、昭和60年3月で85歳を迎えた。今は心臓発作で体が利かなくなったが、数年前までは毎日田んぼに出て働くのを唯一の楽しみとしていた。寝たきりのいまでも、来年の計画を立てたり新品種を注文したりと、農業への意欲は決して衰えていない。「死ぬまで農業は忘れられん」と言い切るほどに農業ひとすじにうち込んできた。
コメと日本人は切っても切れない縁がある。しかし、かつては1人年間1石(150キロ)が標準とされたコメの消費量は、食生活の変化とともに少しずつ滅少してきた。50年には78.9キロと、最高を記録した大正10年の162キロの半分以下に落ちこんだ。
しかし、ほんの40年前は、コメもろくに食べられない食糧難に国民はあえいでいたのだった。戦時中、ほとんどの壮年、若者は召集され戦場におもむいた。残された老人や女性が銃後を守り、工場や田畑で汗まみれで働いた。
第二乙種の奥山氏(当時30代)の場合は、幸か不幸か召集されなかった。そのため、奥山氏は食糧増産に身命を捧げることを決意。コメ作りに奮闘した。広さ110アールの田んぼが、奥山氏にとっての戦場であり、死に場所だった。その努力の甲斐(かい)あって、「七尾の奥原に奥山あり」と他県にも知られるほどの農業功労者となった。
田舎のため空襲はなかったが、富山が空襲で焼けるのが、奥原からでも望まれたぐらい。それでも戦争の影は、満州など外地からの肥料不足という形で訪れ、生産は落ちる一方だった。10アールで7俵(420キロ)さえとれなかったという。
そんな苦しいなかでも、学徒が動員された軍需工場に奥山氏はせっせと野菜などを納入した。ヤミ価格も取りざたされた世相に、「公定価格以外はいりません」という態度で終始して工場に感謝されたのもそのころである。
着物とコメを交換した農家もあったなかで、奥山氏は5合でも1升でも快く分け与えた。「これが農家としての国民の義務」との信念からだった。10年、20年たって、そのときの人が「あのとき、奥山さんに助けてもらってありがたかった」とよく話す。
《だれからも、悪く言われるようなことをしないで、よかったと思うとる。自分は不自由したというわけじゃね。コメがよう食えんかった。不自由なとき、気の毒な人のものをとって交換するものやない。そんな気持ちでいっぱいだった》
そのような奥山氏に、終戦の玉音放送は大変な衝撃だった。ご飯も食べられなかったほど心身ともにうちひしがれたという。
昭和22年10月26日、福井県ご巡幸を終えて、天皇陛下は一路石川県に入られた。この日、陛下は大聖寺駅から大同工業、橋立漁港、国立山中病院と、ご休憩のいとまもなく、次から次へと精力的に回られた。
28日は、秋晴れの空に、目のさめるようなあざやかな虹が立った。
奥山氏は、農業功労者として招待を受け、まず小松市で陛下にお会いした。そのとき奥山氏は、「天皇陛下万歳と言われんと思っていた」ので、そのことをしきりに心配した。しかし、その心配は杞憂(きゆう)にすぎなかった。陛下がお姿を現すと、どこからともなく、せきを切ったようにして嵐のようなバンザイの声がわきおこった。
「奥原でもバンザイができる」と奥山氏は安心した。そのことを一刻も早く奥原に伝えようと、心のせくままお召し列車の先行車に乗って故郷へ向かった。
和倉駅につくと、奥原へかけ足で帰り戻り、息せき切って報告した。
《陛下をバンザイでお迎えすることは、国民としてのまごころぞ》
午後3時57分、陛下は奥原町の奥原農業共同作業場に到着された。モンペと洗いざらしの野良着の人びとの歓迎を受けながら、狭い作業場に入られた。
もみすり機と精米機のうなりと、こぬかがたちこめるなかで、陛下はじっと説明を聞かれた。
「全部仕上げて出荷するの。ご苦労だね」
また、奥山氏の試作した南京豆を指さされて、「この付近にも、こんな立派なものができるのか」とご下問された。
陛下のご巡幸を仰いで、供出米の完納はもちろん、一層の増産を誓ったのはいうまでもない。長年の功労に対して、奥山氏は黄綬と藍綬の両褒章を授けられる。
現在、妻のみついさん(83、当時)と二人で奥原町に住む。男4人、女1人の5人の子どもは、それぞれ独立して別居している。
農業に命をかける奥山氏の後継者は今のところいない。ただ、茨城大学教授の長男・哲(さとし)氏(54、当時)が「地面だけは売らんでくれ」と言い、連休などを利用して土いじりに訪ねて来る。専攻が農学部なので、「土の感触を忘れたくない」と。春の田植えと秋の収穫には、1週間の休みを取って手伝いにも来る。
《農業も「お前1代きりやね」とまわりに言われるが、兄貴 (長男の哲氏) だけは、何も言わんけど、帰って来ることを考えとるじゃなかろうか》
農業ひとすじに生涯を貫いてきた奥山氏は、そう嬉(うれ)しそうに言ってほほえんだ。
【ご巡幸メモ】
石川県初の奉迎場、小松市では次のようなエピソードを地元紙が伝えている。「約1万5千人の民衆が怒とうのような万歳のうちに陛下をお送りしたとたん民衆の中から一老婆が奉迎台にかけより、陛下のくつのあとを拝んだのち、くつからこぼれた砂を寄せ集めて紙につつんだ。この有様をみた人々はわれもわれもと奉迎台にしがみつき、すっかり砂をふき取ってしまった」(「北国毎日新聞」から)
※「昭和天皇巡幸」は、世界日報で連載(昭和60年1月2日~2月9日、4月1日~4月30日)され、世界日報で単行本化し、加筆修正して創芸社から出版されたものを転載しました。







