トップ社会「日本で一番偉え人やなあ」 雨しぶく北陸路へ ~福井編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

「日本で一番偉え人やなあ」 雨しぶく北陸路へ ~福井編~ 【復刻 昭和天皇巡幸】

昭和天皇の福井県巡幸の第一歩を記した敦賀駅。当時は多くの人々であふれ昭和天皇を迎えた。現在は建て替れ北陸新幹線が発着する駅となっている。
昭和天皇の福井県巡幸の第一歩を記した敦賀駅。当時は多くの人々であふれ昭和天皇を迎えた。現在は建て替れ北陸新幹線が発着する駅となっている

昭和22年10、11月

福井平野をうるおす九頭竜(くずりゅう)川は、岐阜県境の油坂(あぶらさか)峠付近に源を発し、坂井郡三国町で日本海に注いでいる。全長110キロ。九頭竜という名は「崩れ川」の転訛(てんか)したもの、と『大日本地名辞書』は記している。「崩れ川」の名の通り、九頭竜川はその昔ひと雨降るとたちまち氾濫した。それを治水した立役者として、1400年前の継体天皇の名が今に伝えられている。

福井平野は、日野川、足羽(あすわ)川など水に恵まれている。特に足羽川の支流の一乗谷川は、戦国の雄・朝倉氏が百年栄華を誇った一乗谷を流れるので有名である。

柳下一栄氏(55)、英子さん(55)夫妻の住む福井市南山町は、その一乗谷から越美(えつみ)北線で一つ手前の越前東郷駅から東南へ約1.5キロの所にある。山すそに沿って家が点在するだけの、町というよりも村に近いたたずまいをみせている。この辺一帯は豪雪地帯である。

二人が結婚したのは、昭和27年。親同士が決めた見合い結婚だった。

戦時中、英子さんは福井高等女学校の学生。1、2年までは学校に通ったが、3年生になると学徒動員で大和紡績に奉仕した。福井県は、古くから繊維王国として知られ、各地に繊維工場がみられた。今でも市内には、繊維会館など糸へんがつく建物が多い。英子さんは、朝早くから夜遅くまで糸をつむいだ。好きな学問をなげうって、「お国のため」奉仕する日々は、それなりに充実していた。純真な女学生のひとりとして、英子さんは日本が勝つことを信じて疑わなかった。日々敗色が濃くなり、食糧事情が悪化しても、級友たちとひたすら日本の勝利を信じて働いた。持参する弁当はサツマイモやジャガイモが主だった。それで、英子さんらはこんな歌を歌いながら工場へ通ったこともある。

 〽仏さまでもあるまいに 一ぜん飯に 一ぱいご飯じゃなさけない

かといって、英子さんらが不真面目だったわけではない。国のために出征した兵士のために千人針などを心を込めて縫った。千人針は、死線(四銭)を越え、苦戦(九銭)をまぬがれる意を込めて、五銭と十銭の硬貨がしっかりと縫いとめられていた。

昭和20年7月19日、福井市一帯が大空襲を受けた。空襲による死亡者は1576人にのぼり、焼失・破壊家屋数は2万2570戸にも及んだ(毎日新聞『一億人の昭和史4』から)。 英子さんの通う福井高等女学校も災禍をのがれることはできなかった。英子さんと級友は、焼失した校舎跡にたたずみ、ぼう然自失した。

《「情けない」と友だちと泣き泣き帰ったんです、あのとき……》

そして、終戦の8月15日。玉音放送を自宅で家族そろって聞く。陛下のお声が遠いもののように聞こえた。「日本は負けてしもうたんや」と父はがっくりと肩を落とした。その姿をみて「日本はどうなるやろ」と英子さんは乙女心に胸を痛めたのを覚えている――。

昭和22年10月23日。天皇陛下は午前7時30分の東京駅発で、秋色濃い北陸ご巡幸の途につかれた。お召し列車は東海道を西下し、米原駅を経由して午後5時6分に福井県の敦賀駅に到着。この日敦賀は、早朝から横なぐりの時雨が降り、〝雨のみゆき路〟の感を深めた。それでも、1時間も前から駅前の道路両側を大群衆が埋めつくし、万歳の歓呼でお迎えした。

陛下はそのなかを、帽子を取られて左右に会釈されながら歩まれた。雨のしぶく北陸ご巡幸はこうして盛大な歓迎のなか、その第一歩が印された。陛下は敦賀から武生(たけふ)、鯖江(さばえ)などを経て、25日に福井市に入られた。

この日、雨模様の天候のなか、英子さんは友だちと誘いあわせて、陛下の通られる沿道に並んだ。このとき、英子さんは福井青年師範学校 (後の福井大学) の学生だった。「財産のないだけ学歴でも」という父の考えに従って入学した英子さんである。

敗戦という事態のなか、天皇陛下の戦争責任追及の声や退位問題が、福井市にまで届き、英子さんはずいぶん心を痛めていた。それが、天皇陛下が戦犯の身として拘束されずに、このように来ていただいたことに、小躍りするほどうれしかった。「天皇制が存続してほしい」との思いがかなって、英子さんは胸をはずませ陛下のおいでを待った。お車が来た。英子さんの前をスーッと通り過ぎた。

「ああ、天皇陛下」

「もっとゆっくり拝みたかったね」。そう英子さんは友人と話しながら帰途についた。

夫の一栄氏は、当時18歳。農業ひとすじに働いていた。英子さんと違い、一栄氏は南山町から足羽川を越えた酒生(さこう)という所で、陛下をお迎えした。当時の新聞は、「かくて福井市を離れられ、足羽郡酒生村でお車を止められて村民にお会釈ののち一路大野へ向かわれた」と短く伝えている。

その村民の一人、一栄氏は、菊のご紋章のついた車から降りられて帽子を振られた陛下を拝見した。「日本で一番えれえ人やなあ」とその姿を緊張に震えながら見つめたという。その印象が長く残っている。

それから約40年。一人娘を東京の大学にやるまでになり、二人はこんなことを語り合う。

《あのころのことを思うと、夢のようだった。とてもようやってきた》(一栄氏)

《ほんとにみじめな時代やったが、よう生きてこられたね》(英子さん)

【ご巡幸メモ】

福井県ご巡幸の最初の訪問地、敦賀で陛下とお会いした室靖人氏(当時小学5年)は新聞に「すぐ前で天皇さまにお目にかかれました、うれしくてたまりません、戦死したお父さんにもこの嬉しさを申し上げます」と述べた。約40年ぶりに初めてこの記事を見た室氏は「もう少しましなことを言うてなかったかな」と苦笑した。雪が入ってくるバラックの校舎で勉強したことが今でも思い出されるという。

※「昭和天皇巡幸」は、世界日報で連載(昭和60年1月2日~2月9日、4月1日~4月30日)され、世界日報で単行本化し、加筆修正して創芸社から出版されたものを転載しました。

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »